二、町史編纂六ヶ年の追憶

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編集者 野呂進

                           編集者 野呂 進
 昭和四十二年七月三十日、町教委から町史編纂という大事業を委嘱されて今日まで六ケ年を経過し、艱難辛苦(かんなんしんく)の末漸く脱稿し、編集を終って全身の重荷を下してホッとしたという感じである。
 中学校長という責任の重い、しかも多忙な職務の余暇の仕事としては非常な重荷であった。然し町教委の付託と町民の期待とに応(こた)えなければという責任感から、この重荷に堪(た)えて文献の渉猟(しょうりょう)検討、資料の調査蒐集を続け、それを整理して郷土誌稿の原稿を書き、郷土誌稿の第一集から第四集までと、郷土史年表稿を刊行するのに三ケ年の歳月を費やした。
 退職までの二ケ年間で綜合編集、刊行という計画をたてたが、、原稿を九分通り書き終えながら刊行の運びに至らず、書き終えた原稿の検討、訂正、追加及び編集、割付、写真、図版を揃える作業のために、退職後更に一ヶ年の日時を費やした。結局六ケ年の歳月を経過したのである。
 資料の調査蒐集に当っては「見たもの」「聞いたもの」を悉(ことごと)くノートにメモした。古文献に書かれている戸井町や下海岸に関係のある事項はすべてノートに書き写した。
 資料蒐集の過程では、古老の語ることは僅か二、三十年以前のことでも、殆んど年月や事蹟の内容が誤っていたり、混乱していてあいまいであることを知り、文献に照らして訂正する仕事を繰り返した。又多くの人々が引用している古書、古文献にも屡々誤りがあり、特に古文献の写本には誤りの多いことを発見した。又古書、古文献を孫引きした著書にも誤りの多いことを知り、それらの誤りを訂正する仕事にも相当の労力と日時を費やした。然しこのような試行錯誤(しこうさくご)の繰り返しが、却(かえ)って私のためには非常な勉強になったことを回顧している。
 戸井や下海岸のことを記述している古文献には可能な限り眼を通したが、萬巻の古書、古文献を読んで見ても、蝦夷地の中の僻地であった戸井や下海岸に関する記述は、九牛の一毛であることを知った。
 そこで私は、戸井とは無縁であった幕吏、藩吏、僧侶、学者、文化人などが、戸井や下海岸を通過或は滞在して書き残した断片的なものだけに頼(たよ)るよりも、この地域に残されたあらゆるものを調査することに重点を置くべきだと考えた。
 このような考え方から、町内に残っている、紙や木に書かれた文字、金石に刻まれた文字を調べて、手あたり次第これをノートした。神社、寺院などの内外に残された文字はもちろん、旧家の位牌、過去帳の文字や部落毎にある墓地の墓碑銘までも丹念に書き写した。
 又昔から伝承されて来た種々の遺物を調査し、村人たちが口から口へと伝えて来た、あらゆる口碑、伝説の類も聞き書きした。
 こういう地味な仕事を継続している間に、数少ない、しかも断片的な古文献を資料として、戸井の歴史を組み立てるよりも、郷土に残されたすべての文字、遺物、伝説などを克明(こくめい)に調べることが、直接的で生きた資料であることを知り、机の上で萬巻の古文献を渉猟(しょうりょう)して、それを上手に継ぎ合わせて見ても、それ以上のものではないことを知った。
 古文献の内容を頭に納め、自らの足を使い、自らの眼、耳、など五官を最高度に働かせて郷土内を隈(くま)なく調査すれば、古文献に記録されていないものをも発見し、古文献の誤りをも発見できるという予想をもって、資料調査に当ったのである。
 このような過程で昭和四十二年八月一日、昔和夷居住地の境界になっていた汐首岬の高台に古くからあった観音堂で、下海岸唯一の円空仏を発見した。又戸井館の館主岡部某が毎朝礼拝していたという伝説の石と推定される石碑を二基発見し、これを「戸井発祥の石碑」と名づけていたが、これが意外にも北海道では珍らしい「戸井館時代の板碑(いたび)」であることが判明し、昭和四十六年三月に、昔箱館で発見された「貞治の碑」と共に、北海道有形文化財に指定された。更に昭和四十六年、一民家にあった仏像の鑑定を依頼され、一見したところ享保年間に津軽今別の僧、貞伝和尚の作った「万体仏」であることが判明した。
 戸井の人々は六百年前の室町時代に造られ板碑、三百年前の寛文六年頃に作られた円空仏、二五〇年前の享保年間に作られた貞伝作の万体仏と気づかなかったのである。これらの貴重な文化財を発見したことは、私の町史編纂過程での喜びであったと同時に、戸井町にとってもしあわせであったと思っている。
 多くの人々がするように、専ら古文献に頼って町史を書くやり方では、これらの文化財の発見発掘はできなかったものと思う。
 又戸井町に功労のあった人々の人物伝を町史に載せようと考えて資料蒐集をしている時に、元医師で名誉村民称号を贈られ、勲五等の叙勲を受けた長谷川益雄先生が、追憶の記を書いていることを知り、自叙伝『白菊(しらぎく)』を編集出版してあげた。長谷川先生がこの本を手にして喜ぶ顔を見た時は、円空仏や板碑を発見した時よりも嬉しかった。長谷川先生は、自叙伝『白菊』出版後三年目の昭和四十六年十一月二十七日に、八十六才の長寿を保って長逝された。
 戦後十九年間、連続戸井村長を勤められ、五選目の中途で病気のため村長を辞任し、長谷川先生に続いて名誉村民称号を贈られ、次いで勲五等に叙せられた工藤健次郎翁が、長谷川先生の逝去に先だつこと九ケ月、昭和四十六年二月二十日、七十四才であの世に旅立たれたのである。
 長谷川先生も工藤翁も、生前私の町史作りに対して、陰に陽に激励して下さっていたが、今日漸く編集を終え、印刷刊行の段階を迎え、拙(つたな)いながらも、待望の『戸井町史』が日の目を見る時に、両大先達(だいせんだつ)が既にこの世にないことは、私にとっては誠に悲しくも淋しい限りである。
 拙(つたな)い町史ではあるが、六ケ年間心魂を傾けて編纂したこの町史が世に出たら、最先に両先達の霊前に捧げたいという心境である。
 満六ヶ年の町史作りの過程にはいろいろな思い出があるが、原稿を書き終り編集を終って読み返して見ると、もう少し日時をかけたらと思う心残りな部分も若干あり、調べ残したり、書き落した事項もある。又私の能力の限界と思われる項目もある。
 然し曲りなりにも脱稿し、編集を終って印刷所に原稿を渡して、全身にのしかかっていた重荷を下したというのが、偽(いつわ)らざる心境である。
 労力と時間の関係で、手の届かなかった若干の本項については、昭和四十六年九月から町内各学校の教職員や町教委の職員の手をわずらわした。
 本町史の印刷所を決定する段階に当り、編纂委員会において検討の結果、各種の立派な刊行物を出版している札幌市の高速印刷センターと印刷契約を締結した。
 印刷所が戸井町とは遠隔な札幌であり、千頁を越える大冊の本町史の編集、割付、校正等に当って編集者として、多少の不安を感じていた。
 然し理事長以下の幹部の熱意と、技術者の良心的な作業並びに懇切熱心な指導により、編集者の不安は杞憂に終り、刊行までにこぎつけることができたのである。
 印刷には素人の編集者として、高速印刷センターの理事長以下社員の方々に、衷心より敬意を表し、感謝の意を捧げたい。
 六ヶ年間いろいろな形で支援、協力、激励を賜わった多くの方々に、深甚な謝意を表し、併せて戸井町の生々発展を祈念して後書きとする。(昭和四十八年三月)
町史の編集・刊行を終って
○村を歩き 山をさ迷い この里の
      町史編(あ)むため 月日重ねぬ
○萬物の 寝静(ねしず)まりたる 寒夜(さむよ)にも
     戸井の古今を 偲(しの)び筆とる
○六年越(むとせご)し 日夜励(はげ)みし この史(ふみ)も
      新縁の春に 実を結びたり
○六年(ろくねん)の 月日閲(けみ)して この史(ふみ)を
     編(あ)みし苦労は 永久(とわ)に忘れじ
・わが編(あ)める 拙(つた)なき史(ふみ)を しるべとし
       戸井の栄(さかえ)に 励め人々
               (昭和四十八年卯月)
 
  戸井町
昭和四十八年三月二十五日印刷
昭和四十八年三月三十一日発行
   編集者 戸井町史編纂委員会
       (編集責任者 野呂 進)
   発行者 戸井町長 中釜 実
   発行所 戸井町役場
         北海道亀田郡戸井町館町
   印刷所 協業組合高速印刷センター
        札幌市西区手稲稲穂四七二
            (非売品)