松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年より同四年(一八四五-一八四七)までの記事をまとめたものによれば次のように記されている。
土人の話しに、椴法華は近来の字にて、唐渡法華と云よし、其ゆへは日持上人此処より入唐し給ひしと。其故に此処に古跡有と云り。またホツケと云魚は此村により取れ初めて他国になき魚也。日持上人の加持を得て此地にて此魚ども成仏せしと云伝ふ。
また明治四十二年、石崎村(函館市石崎町)妙應寺住職木村成明の『鶏冠石之由來書』によれば、
上人ハ永仁七年六月朔日ヲ以テ蝦人酋長ムシヤタ、ナル者ヲ案内者トシテ同地イサンノ北浜ヨリ唐土満刻、(此頃ハ支那領ヲサシテ唐ト云ヘル是レ俗慣ノ通語ノ如シ)ヲココロサシテ渡航ス故ニ此地名ヲ唐渡法華ト号シ後椴法華ト改書ス。
と記されている。なお日持が椴法華より異国に渡った記事については、このほかにも内容は少し異なるが、『北海道旧纂図絵』に見られるので参考として、次に記しておく。
徳治元年(一三〇六)丙午年春正月元日、亀田郡椵(ママ)法華より異国に渡る。