北海道にいつから人間が住んでいたのかということは、非常に興味ある問題である。これは昭和の初めになるが、こうした問題が爆発的に起ったのは、函館の住吉町から日本で最も古い土器が発見されたからである。昭和四年に東北大学におられた伊東信雄氏が山内清男氏を案内して住吉遺跡を確認し、山内清男氏は「日本遠古之文化」で縄文土器の最も古い土器であると発表された。山内清男氏の考えは、函館で考古学に関心をもっていた人達に感動をあたえ、昭和六年には馬場脩氏も『北方郷土』という函館郷土研究会の雑誌に「函館住吉町遺跡について」を発表した。住吉町遺跡とは大森浜から立待岬に行く途中の赤石浜、住吉浜にある高台にあった遺跡で、網干場などがあったところである。すでにこの当時の高台は削られてグランドになっているが、馬場脩氏は山内清男氏と伊東信雄氏が発掘した遺跡を掘って報告したのである。このころ能登川隆氏という人がいた。この人は松風町の通称大門で精肉店を営んでいたが、この人も発掘して土器を集めた。ここから出た土器は、底が尖っていて、貝殼で文様がつけられている。石器には石小刀と呼んでいるが幅の細長い石器で、上部につまみがあり、紐(ひも)を結ぶようになっている。馬場脩氏はエスキモー人の女性が肉を切ったりして食べるときの小刀のようにして用いたと考えたが、特徴的なのは自然の薄手で小形の石の両端を打ち欠いて作った網の錘石が非常に出土したのである。能登川隆氏は、この尖底土器を集めて研究した。発掘した土器は完全な形でみつかることがなく、いくら完全だといってもどこかが損失しているので、セメントで補修している。ともかく、日本で最も古い土器であったから大切に保存されてきた。
普通の縄文土器は、底が安定性がある平底であるのに、住吉町遺跡から出土した土器は、どれも底が尖っていた。これと似た土器にシベリアやソビエトのヴォルガ川上流域などに分布する櫛目文土器がある。底が尖っているか丸底の土器で、櫛で文様がつけられているので櫛目文土器と呼んでいるが、日本の縄文土器は、こうした大陸からの影響で生まれたのでないかと考え、北海道にも櫛目文化があるのでないかと考えられたこともあった。
能登川隆氏は、論文を発表しなかったが、この尖底土器に興味をもってオーストラリアの原住民が尖底土器を造っていたことなども調べていた。椴法華村の尖底土器が集められたのは、昭和七年ころでないかと思われる。椴法華村の尖底土器は、"能登川コレクション"として、その収集品と市立函館博物館に寄贈になったものであるが、完全な形をした美術品でもあり、現在は北海道指定の文化財となっている。