村内で知られている代表的な遺跡は椴法華遺跡である。旧村役場や旧公民館のある一帯で、八幡神社の裏手にあたる。あまり大きくないが八幡川が流れている。川の左岸台地である。この右岸台地には大龍寺遺跡がある。
遺跡というよりか、町の中を歩いているといってよいほど家屋が建ち並んでいて、その規模や範囲を容易に確認できない。かつて空地があり、工事などで土器が出土したり、その破片や石器が公民館に集められている。わずかばかりの空地とか住宅地の斜面から石器を作ったときの石片や土器の破片を採集することができた。この遺跡の性格や時代を知ることができるのは、近くから出土した壺などの所在者と旧公民館にある資料で判断しなければならないが、古くから土器や石器が出土する場所として知られ、この遺跡と関連して大龍寺遺跡が知られている。
この遺跡が八幡町にあるところから八幡町遺跡と呼ばれたことがあるが、旧公民館であった青年研修所を建てるとき、最も多く遺物が出土したのである。
昭和五十一年五月の北海道教育委員会による一般分布調査によると縄文晩期と続縄文の恵山式である。昭和五十七年八月に現地調査したとき、縄文中期後半の余市式土器の破片を採集した。余市式土器とは余市大谷地貝塚の上層から発見されたので余市式と呼んでいるが、器形はほとんど円筒形をしていて、特徴は口縁部が平口で横の平行する粘土の帯が二本めぐらされている。体部と粘土の帯には縄文を施しているが、口縁部と頸部にめぐらされた帯状文の間には縄文がない。この土器形式は、函館の煉瓦台貝塚、戸井の戸井貝塚や原木貝塚から出土しているが、青森県にはほとんどみられない土器文化である。
縄文晩期の土器は、普通亀ヶ岡式土器と呼ばれ、青森県西津軽郡亀ヶ岡で発見されたが、東京大学人類学教室の山内清男氏によって縄文晩期の亀ヶ岡式土器は時期的に五期分され、B式、BC式、C1式、C2式、A式、A'式と大洞遺跡の地点による時間的細分類がなされた。このB式を雨滝式、A・A'式を砂沢式と呼ぶこともあるが、B式や砂沢式は北海道でも珍らしいくらい少ない。
椴法華遺跡の晩期とは、B式とBC式の古い形式に相当する。注口形の土器と壺形土器は完全な器をしている。注口土器とは液体を入れる器で、縄文後期に出現するが、晩期の初期注口土器は、液体を入れる口が広く、頸が細まって体部が広がり、底は丸味があって小さくやや不安定であるが、全体的に高さが低く、注ぎ口は体部の広がったところに可愛いい形をして突き出ている。この注口土器には文様がほとんどなく、光沢がある。この土器があることは、儀式などに用いたもので、酒を入れたものかも知れない。油性の液体ならば、油が炭化して付着していることがあるが、この注口土器は油の痕跡がない。この器形の美しさと仕上げがていねいなことから、普通に使用する土器とは違うことがわかる。この注口土器は二点出土しているというが、一点しか実物をみることができなかったが、形式的には同時期といえよう。
壺形土器は、肩が張る土器で口縁部から頸部、肩の上に文様帯がある。体部の地文は細かい縄文が施されているが、文様帯はすり消縄文で、沈線文といって地文の縄文をすり消して沈線で文様がつけられている。この沈線による文様は三叉状入組文である。文様は青森県や岩手県出土のものといくらか違いがあるが、この時期の土器が出土しているのは、上磯の茂辺地遺跡で、茂辺地出土の土器資料は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に移されたので北海道では考古学的に貴重な資料といえる。
続縄文の恵山式土器とは、恵山町の根田内にあった恵山貝塚出土の土器から恵山式と呼ばれている。この遺跡は冷水川の右岸台地にあったが、貝塚は消滅してしまった。椴法華遺跡の恵山式土器は、ほぼ完形の壺形土器と浅い鉢に台の付いた土器がある。台付土器は器台の部分だけであるが、破片などから甕形土器、壺形土器、台付土器があり、このように器形の変化から進歩した生活様式の時代であることがわかる。
この遺跡は、縄文中期の終りと、縄文晩期の初め、そして縄文時代が終ってからの続縄文時代の初めの恵山式の時期に生活した所といえる。ことに縄文晩期の初め、いまから三千年ほど昔に集落があった。それより前の縄文中期末およそ三千五百年前にも人が住んでいたがその生活の中心は必らずしも八幡町あたりとはいえない。縄文晩期の初めの時期は、土器の出土例からみて、この時期は亀田半島で椴法華村以外ではあまり人が住んでいなかったように思われるが、南茅部町の著保内遺跡では国の重要文化財に指定された中空土偶が出土している。この時期は縄文後期で、縄文時代でも原始的宗教、ある生から死への信仰が盛んになって埋葬とか生活用具にも特徴的なものが現われる時期であった。このような時期のあとが縄文晩期の初めで、注口土器にみられるように原始宗教、ある信仰が社会を支配していたかどうか明らかでないまでも、生活習慣に儀礼的なしきたりがあったと考えられる。発見されている非常に少ない資料からの判断であるが、この遺跡には秘められた生活文化が眠っているといえよう。
縄文晩期初頭から数百年後に生活した時期が恵山式文化の時期である。この時期には、浜町遺跡にみるように広範囲な生活の場があった。椴法華遺跡の恵山式文化がどの程度の遺跡規模か明らかでないが、浜町遺跡には貝塚もあったので、集落の中心は浜町にあり、八幡町にはわずかな家が集落をなしていたと考えられる。八幡川沿いの大龍寺遺跡からもこの時期の資料があり、川をはさんで集落があった。