明治八年

88 ~ 90 / 1354ページ
・一月 根田内村(恵山町字恵山)に郵便取扱所が設置され、下海岸地方は郵便制度の恩恵を受けはじめるようになる。
 郵便が実用化されたとはいっても、函館から下海岸にかけての地域では、二・三ヵ所の郵便取扱所が設置されているのみで、大部分は旧来からの駅逓が使用され、郵便の利用者は御役所や漁場の親方の連絡通信が主なものであったと云われている。(最初の頃は一週間に往復一便の逓送であった)
・二月十三日 この日より平民は必ず姓(苗字)を名乗るように命ぜられる。
 椴法華村におけるこの時の様子は詳らかではないが、他村では役人や地主・親方に失礼になるから、あるいは苗字が無くとも屋号や通称・あだ名等で間に合うなどといって姓を名乗りたがらぬ者があったということである。なおこの時、苗字の無い者は新たに付けるように命ぜられており、他村では新たに苗字を付けるために苦労した村役人もあったと云い伝えられている。
・二月二十二日 この日第二回目の椴法華村一村独立の願いが、開拓使函館支庁開拓中判官杉浦誠から開拓長官黒田清隆に提出される。
 杉浦誠はこの時一村独立の理由として次の点を上げている。
 
椴法華村は戸数が七十戸以上もあること。
尾札部本村から隔絶されていること。
尾札部(本村)・椴法華(支村)の双方が椴法華の一村独立を望んでいること。
 
 なお椴法華村の一村独立が認められるのは明治九年一月十七日付の府県布達である。
・三月十五日 開拓使函館支庁管下で昆布の品質落ち、昆布製造法を布達する。
・三月 椴法華尻岸内間道路改良工事実施。
 椴法華村・尻岸内村両村民の寄付金と双方六十五名ずつの労力奉仕により、古武井椴法華間の道路、三里二十三丁三十間の開削・整備が実施される。この時部分的に旧道は利用されていたが、従来の道より約一里も短縮されたといわれている。(現在の椴法華村元村より山越えして恵山町字恵山方面へのコースがとられていたようである)
・四月二十八日 矢尻浜・水無野で馬の牧草を得るため、椴法華村より開拓使函館支庁に対して、火入れ許可願いが提出される。
・五月二十七日 開拓使は本道海路危険につき五百石積以上の和船の建造を禁止し、西洋型船の建造を奨励する。(この時椴法華村には、五百石積以上の和船・西洋型船はともに存在していなかった)
・五月 函館商人泉藤兵衛に恵山硫黄の借区開坑が許可される。
・七月 火葬禁止令が解除となったため、従来の火葬場(居村より十町余程の山手あと不詳)の壁・煙筒等を修復の上、再使したい旨椴法華村、村用係より開拓使函館支庁に届出がなされる。
・八月 泉藤兵衛、以前三好・桂井の採取していた恵山硫黄鉱山を譲り受け、その後明治十三年まで採取する。(五月、借区開坑の所とは場所が異なるようである)
・十一月 函館に新設された『小学教科伝習所』へ椴法華村民辻勝藏を入所させ、その経費を村の全戸数で負担する。この頃より村民は学校設置の希望を持っていたようである。
・この年、男女混浴禁止令が出される。
 椴法華村では銭湯が無かったのであまり問題とはならなかったのであるが、都市ではこの年から男女の混浴が禁止され、以後何度も風呂屋は混浴をさせないように命じられている。