・一月二十二日 函館・福山・江差に改正徴兵令を施行。
明治六年徴兵令が公布され、二十歳以上の男子による近代的兵制が整えられつつあったが、一方この徴兵令によって徴兵された者は、主として貧農の二・三男が多かったため労働力の不足に悩んだ農民は、徴兵反対の一揆を起すなど深刻な問題もあった。この時北海道は人口の少ない開拓地であること、屯田兵制度が存在することなどから徴兵令は施行されていなかった。しかし明治二十二年一月に至り、函館海岸砲兵隊の設置が必要になり(旧函館海岸砲兵隊は明治二十年四月廃止)古くから開らけ人口も多かった函館・福山・江差に徴兵令が施行されることになった。
・二月十一日 大日本帝國憲法発布
明治二十二年二月十一日紀元節の日、新装された皇居正殿において、内外の貴人列席の中、『大日本帝國憲法』が明治天皇より黒田清隆総理大臣(元開拓使長官)の手に下賜(かし)される。この日各地で憲法発布の祝賀会が開催される。
・三月 亀田郡各村より鰊場へ多数の出稼者出発する。
この時出稼者は古宇・小樽方面へ向かうが、函館へ集合し海路小樽へ向かう集団と陸路同方面へ向かう集団とがあった。
・三月 古平方面で鱈の春釣りが川崎船を使用して実施されるようになり、冬釣りの集団と春釣りの集団は互いに競争するようになる。この春釣りに下海岸の漁師の中から出稼に行く者があったと云い伝えられている。(冬期に鱈漁を行うことを冬釣りと称する)
・三月二十三日 当分の間鹿猟禁止となる。
・五月六日 道庁水産物現品税廃止後、水産製造物粗製につき取締りを諭達。(『新北海道史』第九巻)
・七月五日 説教所妙法寺(現大龍寺)設立を認可される。
・八月 北水協会、雇漁夫逃亡予防のため全道より関係者を集め研究会を開催する。
鰊場所や鰮場所には本道及び本州各地より多数の出稼者が移動してきたが、この時旅費や残し置く家族のために前借(前金・前渡金)を得てくる者が多かった。これらの者達の中には仕事がつらくて逃げ出す者もあったが、悪質な者は方々の漁場へ出稼に行くと言って五円から十円の前借をして、行き先の漁場から期限が来ないうちに逃亡することを繰り返えす者があった。このようなことは雇う側にとっては大問題であり、何とか対策はないものかと研究会が開かれることになったものである。椴法華村の鰮や鮪漁場でもたまに逃亡者があり、なるべく身元保証人のしっかりした者、あるいは例年雇う信用のおける者でなければ雇わないようにしていたが、それでも大正・昭和初期まで逃亡する者があったと云われている。
・十月十九日 横津岳の近傍鳴動する。
この日のことを官報は(要約)『午前十一時五十五分亀田郡役所背後山脈において大砲の音のような鳴響あり』と記す。(原因不明)
・十一月 鹿部・熊泊・臼尻・川汲・尾札部・椴法華・鮭漁あり。
新巻函館値で一円に付六本、三分生は一尾十七銭。
・十一月五・六・七日の三日間下海岸沿岸(含椴法華)鰮大漁となる。
・この年、米価騰貴、函館で白米一石四円九十五銭となる。
・この年、亀田・上磯・茅部三郡生産の鰮絞粕、乾燥不十分で更に俵造りの粗末な製品が増加する。
明治十八年・十九年の三県の絞粕改良奨励により良品が生産されるようになったが、それも二・三年間で水産税が現物納より金納に変わり、これと同時に収獲品の検査が廃止されたため、以前よりも品質が悪化する傾向が出てきたものである。
・この年、全道的に春秋気温低く農作不良となる。
・この年、亀田村で蓄音器を縦覧(じゅうらん)(見物)する会が催される。
明治二十二年十月二十四日 函館新聞
亀田村素木眞龍氏は先々便山城丸にて米國人エヂソン氏の発明に掛る蓄音器を携帯し来り近日の内衆人をして縦覧をなさしむるとのことなるが其縦覧料ハ大人八銭学校生徒は五銭なりと云ふ因に記す縦覧せしむる際は一度に十人位を定員とし一々熟覧せしむる由。
日本に初めて渡来した蓄音器は普通明治二十三年発明者エヂソンより明治天皇へ献上されたもので、現在東京科学博物館に所蔵されているものといわれているが、これよりも早く函館に蓄音器が入ってきたことが知られる。椴法華村へ蓄音器が入ってくるのは、もっとずっと後の大正時代のことであると云い伝えられている。