・七月二十日 軍艦笠置女那川沖に座礁しその後離洲作業失敗、十一月五日軍艦艦籍より除かれる。(『戸井町史』)
・八月 北海道連合教育会が札幌で開催され青年団施設要項及び青年団規程準則が発表される。日露戦争後、国家の進運を扶持する精神とその素質を養成する青年修養の機関としての働きが青年団に求められ、前記のような規定が設けられることになったものである。
・夏・秋、椴法華、昆布・烏賊豊漁。
この時の様子を当時の新聞は次のように記している。
大正五年十月二十九日 函館毎日新聞
下海岸の豊漁
盛に貯金奨勵
下海岸各村の状況を視察の為め本月八日より巡回中の支廳佐野庶務主任は昨日歸廳其の状況を語って曰く。
▲本年は昆布の收獲は頗(すこ)ぶる多かりし為め一般に漁民は遽かに富裕となりて借金も皆濟し何れも安堵するに、引続き烏賊漁多く今より三十年前に大漁ありしがその時に、優る豊漁にて收獲は下海岸に亘りて群来せしか就中尾札部より木直に至る部落は最も多く一戸七十梱(こおり)、内外にて一人當り七梱乃至八梱なり、これを時價一梱二十圓とすれば一戸の收入千四百圓にして一人の收入百四十圓乃至百六十圓なり、随つて景気も頗る好く商人の賣込も多ければ、村有志及村當事者は茲(ここ)に意を須(もち)ゐ大いに貯金を奬勵して将来に備へんと計畫中にて……(中略)椴法華は目下出願準備中なりと、其他漁業組合のある所は之れを利用して規約貯金を設けて收獲の何割かを貯蓄する事とせり。
・この年、椴法華村も烏賊大漁となり、十七万八千二百十五貫の「するめ」を製造し、二十万二千六百三十円の収入を得る。この頃の米一石の値段は約十八円、この時代冷凍設備なくまた道路交通が未発達のため、ほとんど全てが「するめ」に加工されていた。
この頃の烏賊釣の方法は、無動力の磯船・保津船・川崎船等で、釣具として僅か二本の釣針しか付られていない「はねぐ」や「とんぼ」が使用され、集魚用の照明は「松明(たいまつ)」が使われていた。このような漁法でこれだけの漁獲をしたということは、実に資源が豊富であったことが推定される。
・秋から冬にかけて、鰮大漁となる、この時の様子を当時の新聞は次のように報じている。
大正五年十一月二十九日 函館毎日新聞
椴法華の鰮漁
東濱町角力前田商店に着したる電報に依れば椴法華全村にて今朝五百五十玉の漁獲あり跡模様好く人気大いに振ふとありたり尚ほ亀田郡一圓の本日迄の全収獲高は椴法華村の千二三百石を筆頭として優(ゆう)に二千五六百石を算せらるる由。
大正五年十二月十一日 函館毎日新聞
椴法華鰮大漁
椴法華沖合にて九日夜鰮一千石の大漁ありし由支廳に電報ありたり、同村にて最初より収獲高二千五百石に達し漁民好景気なりと。
このように記すと、いいことばかりの大正五年であったかのように考えられるが、漁業面ではこの年あたりから小型動力手繰(小型船による底曳網)が始められ、以後次第に沿岸漁民を脅かすようになり、(沿岸部で操業するため漁場を荒廃させ漁具等に被害を与える)また物価上昇が激しかったため、零細漁民の大部分は耐乏生活を余儀無くされるような有様であった。
・成金の出現
大正五年は庶民の困窮を後目に、いろいろな成金の出現した年であった。
船成金・豆成金・澱粉成金・大根成金といわれるような人々が出現したが、どんな背景で生まれたのであろうか、船成金は第一次世界大戦により船賃が暴騰し、これによって成金となったものである。豆成金はどうして生まれたのであろうか、アメリカ・イギリスは従来ドイツ・オーストラリアから青エンドウ・菜豆(ウズラ・金時・大福などの豆類)を輸入して食料としていたが、第一次世界大戦の勃発によりこれらの豆類の輸入は完全にストップ状態となった。
このためアメリカ・イギリスはこれらの豆類の輸入先を日本に求め、これが原因となり日本に空前の豆ブームが発生した訳である。かくて青エンドウ・菜豆類の価格は急上昇しこれを取扱っていた業者や一部大農民の中に、成金と成る者が続出したのである。なおこれら豆類の騰貴に刺激されて澱粉その他農作物の価格上昇がみられた。
我が椴法華村においても、エンドウや菜種の価格上昇を知った村民達は、積極的にこれらの作物を栽培するようになり、我が村より農産物が移出されることは珍しいことであるが、大正四年・五年・六年には、エンドウや菜種の移出がなされるようになったのである。
椴法華村農産物
・この年、母船式鮭・鱒漁業開始される。
・この年十二月から、倉田百三の「出家とその弟子」が雑誌「生命の川」に載り、以後全国の若きインテリ層にうける。