大正十四年

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・二月二十一日 押野弘喜、恵山硫黄鉱山の権利を常盤鉱業所へ譲る。
・三月一日 東京放送局(現在のNHK)試験放送開始。
・五月三日 根田内・古武井尻岸内連合軍対全椴法華軍の野球試合行われる。(この年頃から下海岸地域の野球盛んになる。)
 
    大正十四年五月七日(函館毎日新聞)
    椴法華村野球戦
  全椴法華軍對根田内・古武井尻岸内各村聯合野球戦は去る三日午後一時より椴法華校庭にて挙行両軍の應援多く場内立錐の餘地なく聯合軍雪辱の意気物凄く奮闘せるも甲斐なく十三對七にて聯合軍敗れた。
 
・七月 恵山以東の村々昆布良好。
・七月二十五・六日 根田内・椴法華付近烏賊大々漁、七八百より千二三百尾漁獲でき、このため他地域より出稼人が日に数人ずつ入り込む程の人気となる。七月一日から八月三十一日まで近年稀にみる大漁となり、前年の約三倍の漁獲高となり、更にその後も豊漁に恵まれ、椴法華村では九月中だけで七万六千八百貫の烏賊を漁獲する。なお函館では八月末、烏賊は少量しか獲れぬため、一尾一円から一円二三十銭もするような有様であった。(この部分の記録は函館毎日新聞の記事いくつかよりまとめる。)
・九月二十二日 川汲・湯川間道路開通祝賀会が湯川小学校において挙行される。
 大正十二年起工、国費十八万千七百七十五円、湯川・川汲間延長八里五十三間、この工事により従来の急坂は大改良を加えられ車馬の通行が可能となり、一月湯川村藤野自動車により湯川・川汲間の乗合自動車の運行が開始される。(冬期間は積雪のため運休)
・十月五日 午前三時恵山沖にて福井県の烏賊釣り発動機船、烏賊二万尾を漁獲しての帰途後方から来た川崎船に衝突され沈没する。漁夫七名は全員救助されたが川崎船はそのまま逃走、届出を受けた水上署では調査をはじめる。これは大正十四年十月七日の函館毎日新聞より事件の内容のみを要約したものであるが、下海岸地域ではようやく川崎船が一般化したばかりの頃、福井県の漁民は既に発動機船で自由に漁場を求め漁業を行っていることが知られる。当時下海岸漁民はほとんどが無動力船しか所有しておらず、おそらくこの発動機船は漁民達にとっては、垂涎の的であったものと推定される。
・十月二十日 椴法華尋常高等小学校増築。(教室一、廊下〇・七五坪、玄関四坪)
・十一月 椴法華村、鰮・烏賊大漁。
 
    大正十四年十一月三十日 函館新聞
   椴法華にては廿七日夜以来廿八日の未明にかけて近来稀に見る鰮の群来(くき)にて約二千石の収穫ありて盛んに沖揚げ中にして今日迄の収穫五千石と稱されて居る上、廿七日夜の如きは烏賊も又大漁一人當り千尾より千五百尾の収穫の爲村内活気を呈し殆んど不眠不休の奮闘を続け居れり。
 
・十一月 青函連絡船貨車航送を開始。
・十二月二十三日から二十四日にかけて、低気圧が津軽海峡を通過したため、椴法華高潮に襲われる。
・この年、椴法華村将来の目標として六十町歩の造田を計画する。
・この年一月 講談社より娯楽雑誌「キング」創刊される。
・この年、「雨降りお月さん」・「あの町この町」・「証城寺の狸囃子」・「この道」等の歌が流行する。

大正14年椴法華村勢一班