昭和八年国際連盟を脱退した日本は、国際的に孤立し軍部の急進化が目立ちはじめ、成り振りかまわず満州へ進出をはじめた。こうした中で軍部は総力戦体制を主張しはじめ、陸軍は十月「国防の本義とその強化の提唱」という刊行物を市民に配布したが、その内容は、個人主義・自由主義は国家非常時にあっては排除されなければならないものであり、「たたかいは創造の力・文化の母である」と主張するようになった。
また軍部は国内において着々と防備体制の充実を計り、陸海軍は軍事上の要地でしきりに戦闘演習を実施するようになった。更に軍部は民間に対しても非常体制に即応できるように、警察・消防団・在郷軍人団・青年団・婦人会等に精神的・物質的協力を約束させ、実地面では防空演習、灯火管制などを実行させるようになった。
次にこの年の戦時関係の主なニュースを当時の新聞報道から拾ってみることにする。
一月 第七師団満州派遣
七月 東部渡島青訓振興協講習会、椴法華村で開催する
八月 青年訓練所、在郷軍人会、連合戦闘演習を行う
八月 連合艦隊当地沖(恵山沖)を通過
九月 第一艦隊旗艦「金剛」以下三十八隻恵山沖にて演習する
このように昭和九年は軍国色の濃い年であったが、椴法華村民にとってはやや生活し易い年であった。その理由は、渡島地方の他村に在っては凶漁に悩まされていたが、椴法華、尻岸内等は鰮・烏賊・鱈等が好漁であり、値段も良かったことから漁民の生活はややゆとりが生れていたようである。それに漁民の生活を明るくしたものに元椴法華小漁港の建設がある。次に小漁港の建設について簡単に記すことにする。(詳細は第七編・椴法華避難港の項を参照のこと)
恵山岬付近は古くから本州及び千島・樺太方面へ赴く船の要路であり、また恵山魚田というよき漁場でもあった。このため各種の船舶が航行或は操業する海域であり、かつ自然条件の非常にきびしい所でもあったため、多数の遭難船が発生する場所でもあった。このようなわけで椴法華に港があればという声が、椴法華村ばかりでなく近隣諸村からも上っていた。こうした状況の中で遂に昭和七年七月道庁に依る実地調査が実施され、同年十月から元椴法華船入濶工事として着工され、総額六万円を費やし昭和九年七月二日、防波堤延長百十五メートルが完成されたのである。この時の村民の喜びは大へんなものであったと古老達は語っている。