・四月 戦争の長期化と激化にともない、従来の消防団を廃して防空監視体制を強化した「警防団」が組識される。(椴法華村ではこの時必要に応じては、海上監視も含む体制が確立される)
・四月二日 椴法華村において自治制施行二十周年記念式が挙行される。この時の記念行事は戦時体制下であるという理由で大変質素に行われたが、当時の新聞は次のように報じている。
昭和十四年四月五日 函館新聞
自治制施行二十周年記念式
△ 椴法華村で挙行
亀田郡椴法華村の自治制施行二十周年記念式は去る二日午後二時より椴法華小学校において挙行來賓として渡島支廳長代理生駒總務課長、鍵谷道議その他で開村以來の功労者に對し感謝状を贈り生駒支廳長代理鍵谷道議の祝辭あり終って祝宴を開き上村村長の発聲で万歳を唱和盛會裡に同三時閉式した。
・五月 五月十二日ノモンハン事件勃発し九月十五日停戦となるが、この戦闘は歴史に残る激戦であった。本村からも多数が兵として出陣していたが、その中の幾人かの村民が帰らぬ人となり、村民あげての悲しい村葬が行われた。
昭和十四年七月五日 函館新聞
壮烈散華 佐々木軍曹
椴法華村字八幡町出身憲兵軍曹佐々木初雄君は六月三十日河北省附近において名譽の戦死をなした旨原隊より同村役場に通知あつたが、更に尾札部村字木直出身歩兵一等兵佐藤優君も六月二十三日ケンケン附近の戦闘において名譽の戦死をとげたる旨入電があつた。
昭和十四年七月三十一日 函館新聞
佐々木曹長村葬
椴法華村字八幡町出身故陸軍憲兵曹長、佐々木初雄君の葬儀は八月四日午後零時半から同小学校において村葬を以て執行する。
・昭和十四年九月 元椴法華村長上村浩太郎より村長高柳良雄に渡された「事務引継書」に、村の状況が詳しく記されているので、当時の様子を知る手掛りとして次に記することにする。
事務引継届ノ件
當村長退職ニ付別紙事務引継書ノ通授受ヲ了シ候條此段及御届候也
昭和拾四年九月三十日
元椴法華村長 上村浩太郎
椴法華村長 高柳良雄
渡島支廳長森本正雄殿
引継演説書
一、村勢ノ概況 (省略)
二、沿革ノ大要 (省略)
三、戸口及職業別戸数(省略)
四、村現況
昭和十一年迠ノ不漁連續ニ依リ民力ハ疲弊困憊シテ退嬰ノ一途ヲ辿リ居タル処昭和十二年以降烏賊(いか)・鱈・昆布等價格ノ昻騰ト相當ノ好漁ヲ見漸次更生ノ氣運ニ向ヒツゝアル折柄元村ニハ水無硫黄鑛山湯ノ澤ニハ谷村製鉄工所ノ経営ニ係ル褐鉄鑛採堀事業勃興ニ依リ労力不足ヲ告ケ從来漁閑期徒食ノ悪風アリタル村民モ非常時局ニ覚醒勢ヒ漁業ノ傍ラ就労スルモノ滋キヲ加ヘ昨今烏賊盛漁期ニ於テモ尚ホ三、四時間乃至五、六時間鑛山労働ニ従事シ収入ノ増加ヲ計リツゝアルモノ鮮カラス本村漁業組合ニ於テハ毎年三月ヨリ十月迄ハ烏賊昆布ヲ目當ニ各組合員ノ大部分ニ米噌類ノ貸付為シ来リタル処本年ハ組合員中鑛山労働ニ依ル副業的収入ヲ以テ現金購入を為スニヨリ一俵ノ貸賣モナサザル実況ニアリ此ノ鑛山事業ニ依ル毎月村民が間接直接ニ享有スル金額ハ五千円ヲ下ラズ優ニ一戸平均百円以上ノ収入ヲ受ケツゝアルノ状態ニアリ特ニ本年ハ昆布ノ高値ニ烏賊ノ好漁加之其價格ハ空前絶後的ニシテ、現ニ(げんに)百斤(きん)九拾六円也一梱約百五拾円見當ナリ如斯好況の際勤倹貯蓄ヲ励行セシメンカ必スヤ相當ノ実効ヲ擧揚シ得ルナラン
五 将来実行ヲ必要トスル事項
イ 元村小漁港第二期工事ノ促進運動
既ニ屢々當路ニ陳情セルモノ(且ツ曩ニ村会ニ於テ建議案トシテ提出可決セルモノ)別途陳情書ニ依リ承知セラレ度
ロ 椴法華・古部間海岸路線開鑿促進運動多年ノ要望容レラレテ先般函館土木現業所宮崎技手ニ依リ約五十日ニ亘リ実測モ終了セル此ノ際渡島半島還状線実現ノ為道路開鑿運動ノ要アリ
本件モ別途陳情書ニ依リ承知相成度
ハ 経済更生計画ハ小職僅ニ一ヶ月間ニ作リ上ケタルモノ自身基本調査ヲ為サザリシニヨリ根本ニ於テ収入負債ニ聊疑義アリ戸数モ少ナリ土地モ狭隘ナレバ是非二三ヶ月ヲ費シテ基本再調査ヲ為シ改善ヲ要ス元来漁村ノ経済更生計画ハ泡摑風追ノ如キ感アリテ農山林ノ夫トハ到底相對比スヘクモアラス要ハ実行可能性アルモノヨリ着々励行ニ努メ以テ更生ノ彼岸ニ達スルノ外ナシト信ス
ニ 村有林間伐ノ件
村有林中第二班ノろノ一部及第三班ノろノ全部ニ亘リテ速ニ間伐ヲ行フノ要アリ甚シキ個所ハ立木ノ儘枯死セルモノアリ
ホ 村有林内薪材伐採搬出ノ件
杣夫ノ拂底ニ加ヘ馬匹ノ減少ニ伴ヒ本年度薪材ノ切出ニ困却シ居ルヲ以テ之ガ對策ノ要アリ
ヘ 恵山境界問題ノ件
前尻岸内村長嶺氏トノ間再度ノ協定ニ依リ恵山権現堂ヲ基点トシテ別途圖面ノ通水呑場迠ハ異議ナク協定済ノ処突然水呑場ヨリ海向山ヘノ境界線中恵山七十五番別途圖面ノ本村土地台帳記載ノモノヲ尻岸内村ナリト主張シ此ノ点ニ引懸リ居ルヲ以テ協定ノ上決定ヲ要ス
ト 人情風俗
大ナル資産家無ク利己主義ニ偏スルモノ多ク随テ公共心乏シク人情味缺欠(けつけつ)一犬嘘ニ吠ヘテ萬犬実傳フル体ノ他人ノ中傷誹謗スルヲ常トスル輩アリ戒心ヲ要ス、過去ニ於ケル豊漁時代ノ夢ヲ追ヒ奢侈心尚ホ存続シ衣服所持品就中児童ノ服装携帯品等頗ル分不相應ノモノ少カラス一般ニ敬神ノ念比較的ニ薄シ然レトモ法會葬儀等佛事ニ就テハ古キ慣習上冗費ヲ使フモノ珍カラス
チ 事前對策ノ要アルモノ
東京谷村製鉄鉄工所ノ経営ニ係ル湯澤鉄山ガ何時迠存続スルヤ本村ニ取リ極メテ重大ナル問題ナリ今後三年乃至五年後ニ突然廃鑛若クハ休山トナランカ村民ノ収入ニ多大ナル打撃ヲ與ヘ因テ失業生活ニ支障ヲ來スモノナキヲ保シ難シ事前ニ之等ニ對スル救済及別途収入ヲ得ルノ對策ヲ講突(ママ)シ置クノ要アリ
鉱石搬出量増加ノ方法トシテ「インクライン」ノ建設目論見中目下日本ニ於ケル鉄鉱石産額ノ多量ナルハ本道倶知安第一ニシテ第二ハ釜石第三位村湯澤鉱山ナル由ナレハココ當分ハ順調ナル発展向上ノ一途ヲ辿ルモノト認メラルル、丈ケニ廃止休鉱ノ場合衝激反動モマタナルコト想像ニ難カラス
・昭和十四年からの鰮の不漁
明治年間から昭和十三年まで年によって豊漁・不漁はあったが、秋漁が皆無ということはほとんど無く、不漁の年でも何んとか鰮粕を製造し、本州方面に出荷することが可能であった。しかしあれほど漁獲されていた鰮も昭和十四年に至り、その原因は海流や水温の変化のためともいわれているが、ぱったりと下海岸地方からその姿を消してしまい、鰮漁を当てにしていた親方衆や漁師の生活を大きく脅やかすことになった。当時の新聞はこの時の状況を次のように報じている。
昭和十四年十一月二十三日 函館新聞
下海岸は不漁
灣内施網水場
數日來三万石に達す
秋鰮の不振は極端に漁業者を萎縮させ殊に潮首から恵山にかけての所謂(いわゆる)下海岸鰮は全く影をひそめたといふ悲境にあるが、漁期の遅れているとのみの理由には片付けられない重大問題で成行頗る憂慮されてゐる。而して噴火灣の内森沖から長万部にかけて施網が數日來合計三万石を水揚げしてをり未だ地方には姿をみせてゐないけれども今後多少の望みあり下海岸の状態が悪いだけに期待されてゐる。
近年の鰮漁は秋漁に對し夏漁が比較的好かったのであるが本年は夏漁が非常に低調で罐詰原魚は勿論油粕ともに最近における不振を示してゐるのでこのままで鰮漁業者は局部的に收支つくのふても道南魚田としては全滅の外ないだろうとさい稱せられてゐる。