天保十年ころの昆布漁業

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 『松前秘説』天保十年(一八三九)によれば、当時の箱館から恵山方面の昆布採取について次のように記されている。
 
 一、昆布之事、志苔よりヱサン崎迄は運上場にてハ無之、銘々挊(カセギ)の場所故、仕入方の厚薄により昆布の豊凶有之とハいへとも皆功により働人自然基場所場所へ多く入込相働く時は取上高過分に至り候故之金兵衛時代には、平日手當遣て置昆布時分には多分の働人出来候事のよく、多く取上候時は一日に二濱も干ヶ立候よし。志苔の厚きハ乾きも遅きゆへ一日半も不乾ハ役々不立と云比仕入方干方□□抜け多く更に□□にハ不相成儀と相聞候金兵衛時代にハ自身相廻り御用品を糺不取斗候よし全く公儀を重んじ商道を冥利と考へ候儀と相聞へ候然る處當時は是に反し當る□くちと相聞へ公儀をも不恐風俗の様子ニ相聞候事。
  一、昆布の最上なるをシノリ昆布とて御用昆布ニ相成候よし、志苔村の海中ニ生じ最上なるは厚き故三枚折と称し次なるは五枚折と云、夫れにても厚薄によりて目方は同じ事といふ
    昆布の場所は箱館よりヱサン崎押廻りて磯より五六尋深サの海中に而生立候よし六月土用前鎌入をして取初め、日数三十日斗の内ニ取上ケ候事のよし。
    其頃志け強く浪あらき時ハ昆布熟しつつ根より取れ磯へ吹上ケ候事も有し由、夫を拾上ケても光澤不宜故御用昆布なとにハ不相成又味も不宜と云。
    箱館城下は海邊在ニてハ運上場ニてハ無之故御用昆布を納入候へは其餘は働次第也と云。
    昆布取の時節ニ相成候ヘハ箱館在々ゟ皆挊に出候よし、御用昆布長崎屋賣渡し其代料は此御入用を引去り残金を分け取候ゆへ運上場之分ハ仕入元へ代金を受取取計候事のよし也。
 
 この内容をわかり易く記してみると次のようなことである。
 志苔から恵山岬までの地域は場所請負人が廃止されているため、定められた税を払いさえすれば、自由に昆布を採取することができるようになっていた。このためその年の昆布の出来・不出来により豊漁・凶漁はあるが、働けば働くだけ収入が増すため、この地域に昆布採取に入る者が多かった。金兵衛(高田屋)の時代には、昆布の採取時期以前より採取者に手当を与えておき、昆布が採取された時は優先的に高田屋金兵衛がこれを買い入れる方法をとっていた。
 昆布漁に励む結果、豊漁の時などは、一日に二度も昆布干しをすることがある。また志苔昆布の身の厚い物は一日半もかかるものがあった。
 漁民の中には利益を求めるあまり乾燥が充分でない物や、不良品などを混入し、製品の質が悪くなることがあった。このため金兵衛の時代には金兵衛自らが製品を見廻り良品の生産に当たらせた。これは公儀を重んじ商道の美徳であったが、最近はこれらの良俗がなくなり、昆布製品の質が悪化してきているといわれている。公儀をも恐れぬ悪い風習である。
 箱館から恵山岬までの昆布採取場所では、およそ磯から五、六尋の深さの所に昆布が生育する。六月土用前から鎌により取りはじめ、およそ三十日間ほどで採取する。採取時期にしけが続き採取できない時は、昆布は海中で熟して自然に根がとれ磯へ打ち上げられることもある。この磯に打ち上げられた昆布は光沢などもあまり良くなく、御用昆布(供出用昆布)などには出来ず、また味もよくないと云われている。