前松前藩の時代から昆布資源保護のために法令が出されていたが、規制するだけでは積極的な保護対策とはならず、時代の経過とともに漁業人口も増加し、一人当たりの採取量も早くから開けた六個場所などでは減少する傾向がみられ、更にますます増加する昆布需要に生産が追いつかない状況になりつつあった。
こうした状況の中で万延元年(一八六〇)(あるいは安政元年・一八五四)東蝦夷地沙流場所請負人山田文右衛門により、投石による人工繁殖法が試みられ、万延元年から毎年投石された結果、すこぶる良質の昆布が年を追うごとに繁殖するようになった。
これを知った箱館奉行は慶応二年(一八六六)請負人一同に文右衛門の投石法を習わさせ、昆布の増殖に努めるように諭告し、以後昆布繁殖のための投石が各地で行われるようになっていった。