烏賊漁の豊凶の様子

623 ~ 625 / 1354ページ
・明治十六年の烏賊大漁
   明治十六年十月二十二日付函館新聞より(要約)
  ○大漁
   茅部臼尻尾札部兩村の近傍は是まで大抵五年目毎に烏賊の大漁を見る處なるが、當年ハ殊の外豊漁にて昨今頻りに鯣(するめ)に製(こし)らへ居るよし、(中略)爰(ここ)に笑ふべき一話あり先日太陽光紅色に變ぜし時、臼尻尾札部の村中に右の變色ハ全く烏賊を無暗に捕るために天の崇りならんと評判せしところ一時村中一同烏賊の澤山捕れるにも拘(かか)はらず皆んな漁を中止したりとぞ。
 
 この時はおそらく椴法華村でも烏賊の大漁があったものと推定される。
・明治十八年、この年椴法華村烏賊豊漁、その他、鰮・昆布等も豊漁のため日本全体が不景気状態であるにもかかわらず村内好景気となる。鯣五千斤生産。
・明治十九年、この年石川・富山・新潟方面より烏賊漁のため函館へ来航した漁船よりコレラ発生し、下海岸住民は戦々恐々となる。
・明治二十三年、この年秋椴法華村烏賊大漁のため大量の鯣が生産される。函館では大漁の時、十銭に生烏賊七八十尾から百尾と云われており、椴法華村ではもっと安かったようである。
・この年九月七日、函館の沖合で急激な大暴風雨のため約三十隻烏賊釣船が遭難し七十名の生命が失われる。
・明治二十四年、この年烏賊大不漁
 
  (明治二十四年十一月一日、函館新聞より要約)
  ※烏賊釣の困難
   本年当港烏賊不漁なる為佐渡・新潟地方出稼せし漁夫は歸國の旅費にも差支え甚(はなはだ)しきは借金出来たるもあり、為に出稼漁夫大凡五千人許の内千人位は前記の始末にて帰國能はず、當地に殘れり。
  ※鯣製造人の不注意
   本年烏賊の不漁に連れ鯣も不足なれど横濱商人は香港相場安きを以て輸出するも引合わずとて之を見合せば乾燥充分ならねば望人なく乾燥の良否によりて百斤に付三四十銭宛の差あり。
 
・明治二十六年、この年秋、烏賊・鰮・椴法華村大漁となり、村内好景気となる。
・明治二十九年、恵山沖烏賊大漁
・明治三十二年七月、本年が七年目の烏賊の豊漁期に当たると信じられ、本州方面より道南地方に約一万二千人の烏賊釣漁夫が渡来する。
・明治三十三年、函館近海不漁となる。このためか七月頃より東北地方、宮古方面からの出稼者達が椴法華村に多数来村する。
 
  明治三十三年九月二十二日 函館毎日新聞
    本港の秋烏賊漁況
   本港の烏賊は夏漁の初めに於ては可なりの収獲ありしも秋漁に移りて以て捗々しき漁事なく昨今の所漁夫一人前僅かに五七十尾乃至百尾内外の収獲に過ぎず去れば濱相場も製品市場の好況と薄漁の為め大に上進し十銭に八九尾位にて市中小賣値段は又た上四尾より五六尾内外にあり而して今後の漁事は果して如何あらんか知る能はざれど目下の期節に於て好漁なきとなれば今後はとても大漁は覺束(おぼつか)なるべしと云ふ。
 
□明治四十二年、椴法華の烏賊漁
 初期より八月末まで不漁であったが九月より十月下旬にかけて大漁となる。
□明治四十三年、この年あたりより、恵山沖では鱈の漁獲量が減少し、これに代って、烏賊の漁獲高が増し、「鯣(するめ)」の生産高がふえる。