前松前藩時代の終り、寛政十年(一七九八)の『蝦夷雑誌』によれば、「トトホツケ此所三里舟渡アリ」と書かれており、開始時期は明らかではないが、(寛政三年菅江真澄もこれを利用せるか)椴法華-尾札部間に舟渡の制度があったことがわかる。
また前幕府時代になったばかりの寛政十二年(一八〇〇)の『蝦夷道中記』によれば、
尾佐別より乗船東を差て行所夷家あり日本人出張有三里行て山道有此所日本人家余程あり、トトホツケと言所ゟ山道焼山煙見へる所に道見へる高山を越所と言夫より御舟一里余繪丹内日本人家多し夫ゟ二里半行て尻岸内七ツ前着日本人家多し
と書かれており、当時尾札部-椴法華間には陸路が無いため、箱館から東部海岸線を通って奥地へ往来する者は、もっぱらこの間を舟にて通行していたことが知られる。