文政五年(一八二二)より安政元年(一八五四)に至る三十三年間を後松前藩時代というが、この時代の海運はどのような状況であったろうか。
西蝦夷地では、松前・江差方面の鰊が大漁であったので、本州及び東蝦夷地海岸線からの出稼者が多数流入し、この豊漁を目指しての本州からの入港船も増加する傾向が見られた。特別な例としては、天保四年(一八三三)と天保七年(一八三六)の奥州大飢饉の時多数の渡来者があった。
一方、東蝦夷地では、前幕領時代の文化九年(一八一二)幕府による直捌制廃止され、各場所の請負入札が行われていた。直捌制が実施されていた時代は、東蝦夷地の産物は、ほとんど大部分が箱館へ集散され、ここで販売されなければならない仕組みになっていた。しかし直捌制廃止後は、東蝦夷地の産物は、福山・箱館のいずれで販売してもよいことになり、東蝦夷地の請負人は大部分が福山商人であったこともあり、東蝦夷地の産物の大部分は福山港に運ばれるようになっていた。こうした状勢で箱館港への入港船は減少しつつあったが、後松前藩時代に至り箱館港としては更に二つの難関をむかえることになった。
その一つは、後松前藩時代になってから東蝦夷地では、その産物である昆布・鮭・鱒等の漁業が不振となったことである。このためこれを目当ての本州船の来航が減少する傾向にあり、更にもう一つは、天保二年、ロシア密貿易の嫌疑により没落した高田屋の事件である。天保四年(一八三三)高田屋金兵衛は所有船十二隻の没収、所有財産没収の処分を受け、一挙に潰滅してしまい、箱館は戸数こそ江差にまさっていたが、前幕府時代とは比べものにならないほど入港船は減少し、景気は最悪の状態となったといわれている。