明治三十年代後半から下海岸陰海岸の海運は、旅客貨物量ともに増加しつつあったが、戸井・尻岸内の有志はより海運の充実を目標として、明治三十四年七月一日「恵山汽船共同組合」を設立し海運業務に乗り出すことになった。設立時の株主は戸井村三十八名・尻岸内村二十七名・函館三名・椴法華一名であった。この時恵山汽船共同組合独自で船を所有するまでに至らず、株主の一人である函館の〓坂村祐右衛門所有の渡島丸と第一丸が利用された。恵山汽船の船は、主として戸井・尻岸内諸港に入港したが、貨物量の多い時期は椴法華にも入港した。なおこの船便は各村をまわる行商人・旅芸人・セールスマンなどに大へんよく利用され、戸井・尻岸内で仕事をしたあと一泊し、陸路山越えをして椴法華に来村し仕事が終り一泊、その後古部・尾札部方面へ出発したといわれている。(この逆の行程もとられていた)