渡島汽船と〓工藤海運部

839 ~ 840 / 1354ページ
 明治末ごろより、椴法華から熊方面の定期船路は、函館の〓(ヤマサンギ)工藤海運部の独占経営路線ともいえるものであったが大正九年ごろから臼尻尾札部地域の有志を中心に陰海岸の回漕店設立を求める気運が高まり、大正十年に至り臼尻の小川幸一郎を中心として回漕店が設立されることになった。
 
  渡島汽船株式会社の設立
  大正十年十月二十五日 創立総会開催
  社長   小川幸一郎
  所在地  函館市東浜町十五番地
  株式数  三千株
 
 こうして渡島汽船株式会社により椴法華から熊までの間を、寄港地として海運業を始められたが、以前からこの航路の独占的経営をしていた〓工藤海運部との激しい争いとなり、貨物や乗客の取り合いとなったと言われている。
 すなわち、〓工藤海運部は、春日丸、鳳至丸の二隻を、渡島汽船株式会社は、西久丸、一二丸、西海丸を投入して両者互いにゆずらぬ体制となったが、漁業繁忙期は、貨客ともまずまずの運行状況であったが、閑散期の経営は両者とも容易ではなかった。
 その後、渡島汽船株式会社は、大正十五年十月一日、北海道道庁命令航路の指定を受け、函館・森間に芸陽丸、函館、磯谷間に共益丸、西久丸を投入し経営を続けたが、経営状態はあまり良くなかった。
 「南茅部町史下巻」によれば、その後の様子について「渡島汽船(株)の株の出資回収は捗らず、五年余にして昭和二年、函館巴回漕店に合同された。翌三年二月、巴回漕店も解散したと記されている。