明治・大正時代

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 明治初期北海道の沿岸は港湾・燈台・航路標識・海図等もほとんど整備されていなかった。特に夏季の海霧、冬期の激浪等自然条件のきびしい海上交通の要衡である恵山岬一帯においては、早くよりこれらの整備充実が強く望まれていた。このことはやがて官側も認めるところとなり、明治二十三年に恵山岬燈台が設置され海図なども整備されはじめたが、港の築設には全く手が付けられなかった。
 言い伝えによれば、村民の協力によって現在の元村に、木の杭を打ち岩を積み上げた小型船用の仮設船着場が設けられており、沖へ碇した船とこの間を磯船や三半船で往復し、人や貨物の輸送に当たったといわれている。
 その後明治三十年代ごろから下海岸・陰海岸に西洋型船による定期航路が開設され、本村へもこれらの船が入港するようになり、貨物量・乗客ともに次第に増加をみせはじめた。このため椴法華村では明治三十五・六年ごろから〓小井田、明治四十四年ごろから〓白府により艀船業が開始され、更に時代の進展とともに海運業はますます発展の傾向をみせ、ついに大正元年八月には椴法華回漕店が設立される程になっていた。
 また恵山岬は古くから本州方面より津軽海峡を経て北海道の太平洋岸諸港及び千島樺太方面へ赴く船の要路であり、かつ恵山魚田は道南の漁業の豊庫として盛漁期ともなれば、本道の船は元より本州船も多数出漁し、漁船の銀座通りともいうべき観があった。しかも恵山岬付近の自然条件は非常にきびしくひとたび嵐となるや、小型船など避難する場所がなく陸岸を近くに見ながら遭難する場面が何度も見られた。このため本村民はもとより近隣住民のみならず、この沖を航行する者、この沖に出漁する者は、こぞって避難港の建設を望むような状況となっていった。
 こうした機運の中で村民の港建設の願いはますます強力なものとなり、昭和初期から道庁に対する何度も何度もの陳情書の提出となっていった。