日持伝説と日持聖人祭

957 ~ 958 / 1354ページ
 今を去ること六百数十年前、日蓮上人の高弟に蓮華阿闍利日持という勇猛の僧があったが、ある日、日持は海外布教をしてはどうかという師の導びきを受けた。この導びきに発心した日持は、永仁三年(一二九五)正月、駿河国(静岡県)を出立、翌年箱館に渡来し数年間にわたって箱館、下海岸周辺で布教を続けた。その後、日持はより遠い異郷に日蓮宗の教えを広ろめるため、永仁七年(一七九九)六月一日、恵山の北浜より、蝦夷の酋長ムシャッタを案内者として唐土を目ざして出立していったということである。
 このような出来事があったので、土地の人々は、恵山の北浜の地を、法華宗の僧が唐(異国)へ渡った所、すなわち、唐渡法華とよばれるようになり、後に「椴法華」と書き改められたと言い伝えられている。
 また、日持の出立後、今まで見たこともなかったホッケが椴法華で漁獲できるようになり、ホッケは日持の加持によって成仏するため椴法華に来るのだとも言われるようになった。
 昭和三十年代に入ってからの我国の経済成長による影響により若者達の都会指向の傾向が多く、椴法華村の若者も都会での生活を夢にみて、郷土をあとにする者が多く、過疎化が進展し、その対策が大きな行政課題となってきた。過疎脱却の打開策として村の活性化が叫ばれ若者が中心に椴法華村の史祖といわれる日持聖人祭が昭和六十一年四月、水無海浜温泉を中心として一大イベントが展開された。
 
 椴(唐渡)法華村史祖日持聖人祭
四月二十日(日) 行脚 三十五km
  石崎町妙応寺~椴法華妙顕寺まで
四月二十六日(土)前夜祭水無海岸にて
四月二十七日(日)法要 唐渡の儀式
 主催 日持聖人祭実行委員会
 後援 妙顕寺、観光協会、商工会、恵山荘、漁協、オルレアン84
 以後、毎年実施されるといわれている。

[図]