本村における江戸時代の消防のことは詳かではないが、有事の際は各自駈付け消火活動に努めていたようである。
これは特殊な例であるが、松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、弘化二年(一八四五)六月十一日の恵山硫黄自然発火の際に二百人もの人足が、村役人の指揮を受けて消火活動に当たっている様子が記されている。おそらく椴法華(現在の元村)・島泊・根田内(現在の恵山町)の村の人々がかり出されたものであろう。
蝦夷日誌
弘化二乙巳六月十一日夜、恵山西手に当り火燋上り半天に輝き、さして山動地響もなかりしが、火光〓々として近村シマトマリ、椴法華、根田内村三ヶ村大に騒動して、殊に山上に湯治場有レ之処、此頃七、八人も上り居候処、温泉小屋より五丁斗相隔り卯の方夜八ツ時頃に燃出し、右湯治人も早々遁去り村役人ヘ為二相知一候処、村継早くしらせ参候。
則私共下役人召連急ぎ出張仕候処、同十三日九ツ過に当着仕候。湯治場迄参り候人足二百人斗にて湯水を汲かけ候へども、凸凹たる燋石山にして嶮岨中々に運送しがたく致し居候処、只硫黄多き筋上宮の方に燃来らん事のみ。(以下略)