明治四十一年三月二十三日、午前二時、椴法華沖(銚子沖)において、青森から室蘭へ向け航行中の青森・室蘭間定期船陸奥丸(日本郵船所有、九百十四屯)と室蘭から函館へ向け航行中の秀吉丸(金沢市谷三郎所有、六百九十二屯)とが衝突し陸奥丸沈没する。衝突直後から必死の救助活動の結果、陸奥丸の乗客三十二名・郵便係員二名・乗組員二十八名を救助し得たが、暗夜と激浪のため乗客百九十九名・郵便係一名・船長以下乗組員十名合計二百十一名が行方不明となる。
戸井町史は、戸井警察分署(明治二十年代から大正初期まで、尻岸内・椴法華・一時的に尾札部駐在所を管轄する)の資料に基づきこの事件を次のように記している。
衝突した時に陸奥丸が秀吉丸と密着していたので、陸奥丸の二等運転士巻幡吉太郎その他の船員は船客を秀吉丸に移乗させることに全力を尽し、秀吉丸の船長大原惣四郎は船員を督励し、大小三隻の端艇を下ろして救援につとめ、船員二十八名・郵便係員二名・乗客三十二名を救助した。この頃たまたま第一長久丸が附近を通行したので、同船の応援をも得て、救助を続行したが風波が荒くて効を奏せず、本船も危険になったので、救助した乗客二十七名を第一長久丸に移し室蘭に送り、秀吉丸は椴法華湾に避難した。
次いで駿河丸・肥後丸の二隻が救援に来航し、大湊要港部から派遣された水雷艇春雨号は屍体の捜索に当ったが一体も発見することができなかった。
この事件は夜中であり、しかも沖合二海里の海面の椿事であったので、椴法華沿岸の人々は誰一人知る者がなく、夜明けになってから秀吉丸の船員が上陸して、事の次第を伝え、救助船の出動を要請されて初めて知ったのである。
救助船の出動を求められたので、巡査三輪亀三郎は消防組員を召集し、漁船三艘を出し、青年同志会は二艘を出し、村吏員と共に激浪を冒して救援に向い、秀吉丸に移乗した陸奥丸の船員及び負傷した乗客五名並に小児の屍体一体を乗せて帰港し、大竜寺に収容した。戸長役場は衣類・夜具・食糧を給して救護の万全を期した。
急報に接した戸井分署長萩田七十次警部は、巡査部長と巡査を引率して椴法華に急行し、戸長を督励し、消防組員及び村民に持符船八艘を出動させ、沿岸及び近海を捜索させたが、生存者はもちろん一体の屍体すら発見できなかった。
なお『青森市史年表』では乗客二百八十九名中、二百二十六名溺死と記されている。