ロシアの北辺進出

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 元禄十年(一六九七)頃までにカムサッカまで進出したロシアは、その後も前進を続け正徳元年(一七一一)頃には千島の北部にまで進出し、日本の北辺住民と接触するまでになった。更にロシアでは、漂流日本人を相手に日本語の研究や日本の情報収集につとめ、享保五年(一七二〇)にはピョトル大帝の命令により探検隊を派遣するなど情勢把握を続け、やがて安永七年(一七七八)にはノカマップ(納沙布岬)に来航し松前藩に通商を求めるまでになっていた。(この時、松前藩は通商を拒絶)この後もなお進出を続け天明年間(一七八一-八九)には、北辺において摩擦が発生するようになった。こうした社会情勢下の寛政四年(一七九二)ラックスマン根室に来航し、翌年、松前で幕府と交渉する間乗艦のエカテリナ号箱館に入港させるなど、徳川幕府の鎖国体制を脅かすような事件が次々と発生した。
 このような理由により何度も蝦夷地近海に外国船が出没したのであるが、その中から、下海岸に関連すると思われる出来事について次に記すことにする。