ブロウトンの再来航

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 寛政九年(一七九七)七月、前年のプロビデンス号の指揮官ブロウトンは別の船にて再度絵鞆(室蘭)に来航、上陸して薪水の補給を行った。虻田勤番所は直ちにこのことを松前藩に報告し、これに対して藩は、工藤平右衛門、加藤肩吾を急派した。ブロウトンは工藤との再会を喜んだが、藩側は前年とは異なり厳しい態度で臨んだため、ブロウトンは出帆の準備を早めた。こうした時、藩側は、士卒三百名を絵鞆に急行させ高橋壮四郎に命じ堅く再来を禁止し、もしこれに背き不法に上陸するようなことがあれば、撃退することを通告しようとしていた。しかし、高橋は二日の午後やっと絵鞆に到着したため通告することはできなかった。その後、九日福島沖に姿を現わし松前藩を驚かせたが、何事もなく去っていった。一方江戸幕府はこの急報が達すると、津軽藩に箱館を守備するように、更に松前藩主は参勤の登上中をとりやめ、直ちに帰国するように命じた。
 なお寛政八年の初来航の時、ブロウトンは内浦湾(日本名)の周辺に駒ヶ岳、羊蹄山、有珠山などの火山の山々があることから『ボルケニックベー』(噴火湾)と名づけている。