ゴローニン事件が終ってから後は、北方地域における日本とロシアの関係は比較的平穏であった。その理由は、ロシアではヨーロッパにおけるナポレオン戦争とその後の国際問題の解決に国力が使用され、更に千島・樺太方面への進出政策から、中近東・中央アジア方面への進出政策へと政策の転針がみられたからである。このようにロシアとの関係は平穏になったが、これより数年前から代わってイギリス・アメリカが我が国周辺に進出をはじめていた。すなわち十八世紀より植民地インドを中心としてアジアに侵入を計ったイギリスは、オランダと争うようになり、ナポレオンのオランダ侵入を好機として、東南アジアにおいてオランダ植民地を攻撃し、遂に文化五年(一八〇八)にはイギリスの軍艦フェートン号が長崎に突然侵入し、オランダ商館を襲うような有様であった。また北大西洋方面で行われていた捕鯨がこの頃不振となり、このためアメリカ捕鯨船の中には、小型帆船ではるばる蝦夷地近海まで出漁するものが現われ、食料・燃料・飲料水の欠乏や難船に苦しむ船が多数出現した。このような理由でイギリス・アメリカ船の出没が年々その数を増し、中には蝦夷地に強行上陸し水・燃料等を求める船が出現するようになった。
こうした外国船出没の増加は、江戸時代の初めから幕府が強く維持してきた鎖国体制を脅やかすものであり、かつ国民に精神的な動揺を与えることを恐れた幕府は、文政八年(一八二五)二月、『異国船打払い令』を出すことにより、これら外国船の動きに対処しようとしていた。
異国船打払令
大目付え
異国船渡来之節取計方、前々より数度仰出され之有、をろしや船之儀に付ては、文化之度改て相触候次第も候処、いきりす之船先年長崎に於いて狼籍に及び、近年は所々え小船にて乗寄、薪水食料を乞、去年に至り候ひては猥りに上陸致し、或は廻船之米穀・嶋方之野牛等奪取候段、追々横行之振舞、其上邪宗門勧め入候致方も相聞、旁捨置かれ難き事に候。一体いきりすに限らず、南蛮・西洋之儀は、御制禁邪教之国に候間、以来何れ之浦方におゐても異国船乗寄候を見受候はゞ、其所に有合候人夫を以有無に及ばず、一図に打払、逃延候はゞ、追船等差出すに及ばず、其分に差置、若押て上陸致し候はゞ、搦捕、又は打留候ても不苦候。(中略)尤唐・朝鮮・琉球など、其船形人物を見分くべき候得共、阿蘭陀船は見分も相成かね申すべく、右等の船方万一見損相談候共、御察度は之有問敷候間、二念無く打払を心掛、図を失わざるよう取計候処、専要之事候。(以下省略)
文中に『をろしや船之儀……』とあるのは、ロシア使節レザノフの要求を長崎で拒絶した幕府は、このことが原因でロシアとの摩擦が起ることを恐れ、ロシア船に限って漂流した時などの上陸は許さないが、食料・薪水等の給与は認めようとしていたものである。しかしその後文化三年から四年にかけてのロシア人の海賊行為の発生により、文化四年十二月より、ロシア船についても難船漂着以外の者は厳重に打払い、上陸する者があったら捕縛するか斬り殺してしまえと命ずるようになった。
このように江戸幕府は異国船打払令を出して強行に外国船を打払い、鎖国体制の維持を続けようとしたが、弘化・嘉永年代に入ると益々蝦夷地周辺に外国船が出没するようになっていった。