[戸口の増減]

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 郷土の戸口は、明治以来昭和六〇年まで一一八年、自然増などにより緩やかな上昇線をたどってきた。
 明治のはじめ尾札部村、臼尻村、熊村三か村をあわせて戸数三三六軒、人口二、〇三八人であった。明治の末まで四五年のあいだに戸数は九七八軒、人口六、二一一人に増加していった。四五年間で戸口は三倍の増加を示している。
 しかし、北海道全体の急速な開拓入植による戸口の増大にくらべると、その戸口増の比率はきわめて低く、道南の各村の中でも大きな伸びではなかった。
 いわゆる山陰在(かげざい)として時代の進歩、交通の発達から遠ざけられていたのは大正もまた同じであった。
 明治期の前半は二〇年間で戸数は五一八戸、明治元年の一・五四倍、人口は三、〇一一人で明治元年の一・四七倍である。
 明治二〇年から明治四五年まで二五年間の伸び率は、戸数において一・三六倍、人口において一・五七倍で前
半同様の緩い上昇カーブであった。
 大正から昭和へは、やや強い上昇カーブを示した。
 昭和期に入ると、昭和四年、駒ケ岳の大爆発などによる噴火災害があって、山野海浜も荒廃して、一時は民心が動転したにもかかわらず、イワシの大漁にささえられて、昆布礁復旧や舟入澗の構築などの救済事業と開発施策が進められた。
 かげ在はようやく川汲山道や沿岸道路の開通、電灯の点灯など僅かな曙光のなかで、同じカーブで戸口は上昇しつづけていく。戦争がすすんだ昭和一五年には、ついに郷土の人口は一万人に達した。
 明治以来、七三年目にして戸数は四・七七倍に、人口は五・二二倍で、戸口ともにおよそ五倍の増加を示した。
 
  新北海道史
  北海道統計書による「人口の推移」
           戸数        倍率        人口       倍率
  明治 2年     一二、〇一七戸             五八、四六七人
  明治20年     六七、五四四戸    五・六二    三二一、一一八人   五・四九
  明治45年    三一九、三九〇戸   二六・五七  一、七三九、〇九九人  二九・七四
  大正15年    四五八、四一八戸   三八・一四  二、四三七、一一〇人  四一・六八
  (昭和元)
  昭和15年    五八〇、五三五戸   四八・三〇  三、二七二、七一八人  五五・九七
  昭和30年    八九七、七六九戸   七四・七〇  四、七七三、〇八七人  八一・六三
  昭和45年  一、四二八、九一七戸  一一八・九〇  五、一八四、二八七人  八八・六七
  昭和60年  一、九二九、四七〇戸  一六〇・五六  五、六七九、四三〇人  九七・一三

1 明治以来の戸口の変遷  右の数字は戸数(戸) 左の数字は人口(人)


茅部 尾札部村 臼尻村・熊村 戸口グラフ

 出征していた成年男子が戦後、復員して結婚、分家、再婚などで、全国的に出生もかつてないほどの増加をみる。
 郷土はイカ漁でにぎわい、道内外からの入稼ぎも多く、以来、人口は増加をつづける。
 昭和三二年、郷土の人口史上その頂点に達する。戸数は二、二八七戸で六・八倍、人口は一四、八六八人で七・二九倍、明治元年に比し約七倍に増加した。
 郷土の人口がピークに達した当時、北海道の戸数は昭和三〇年国勢調査で八九七、七六九戸で七四・七倍、人口四、七七三、〇八七人で八一・六三倍だった。
 昭和三二年の人口を頂点に郷土の人口上昇線はストップ。仕事を求めて戸口の町外流出が自然増をはるかに上回り、人口は下降線をたどり、昭和三八年を境に三九年、四〇年へ急速に人口は減少していく。
 昭和四五年から人口はやや横ばいにはいるが、上昇する世帯数に反して、年々一二〇人前後の減少を示している。