宇賀昆布

597 ~ 598 / 1210ページ
 延暦一六年(七九七)に成る続日本紀(しょくにほんぎ)四〇巻(菅野真道ら)に、元正天皇の霊亀年間(七一五~七一七)「先祖以来貢献昆布」云々とあるのを、昆布の記述の始めとされている。
 平安初期(七八二~一一九〇)深江輔仁が勅選により編んだ博物書「本草和名(ほんぞうわみょう)」三巻には、一名比呂女(ひろめ)、衣比須女(えびすめ)とその語源が記されている(稲垣美三雄編・日本昆布大観・昭和二二年刊)。
 建武年間(一三三四~)、僧玄恵の著といわれる能狂言五九番集に「昆布売」、同人の著とされる庭訓往来(ていきんおうらい) 四月状返には、「卯月十一日 中務丞曰奉(のたまいたてまつる) が記され 進妥女正殿」として、諸国の産物の中に「備後酒 和泉酢 若狭椎 宰府ノ栗 宇賀(うが)ノ昆布(こんぶ) 松浦鰯 夷鮭(えぞさけ) 奥漆」などとある。
 この庭訓往来に記す宇賀昆布を、マコンブの名が全国に知られる始めとしてよく引用される。
 室町末期の註釈本「庭訓往来註」に、宇賀昆布について「夷嶋弁才天ノ御座所也」と記す。
 永正六年(一五一九)、近衛尚通の日記には、日蓮宗の一本山京都本満寺の僧侶が「エソヘ渡」り、帰京して『昆布 一束五十 夷筵一枚』(新北海道史)とある。

庭訓往来 寛政8年 小笠斎溝江筆(安政版) 吉田 覚太郎 提供