寛永一七年(一六四〇)六月一三日、駒ヶ岳が噴火して大津波が起こり昆布舟が百余艘ほど被害をうけた。
新羅之記録に
松前ノ東内浦之嶽俄爾トシテ焼ケ崩レ、其勢ニ滄海動揺シテ〓(つなみ)滔リ来リ、百余艘の昆布取舟ノ人残リ少ナク〓ニ引カレテ㲻レ死ニ畢ンヌ
松前年歴捷径には
寛永庚辰十七夏六月内浦岳發火動山 海蒼海水溢人夷溺死者甚多人里破壊船百餘隻
とある。
この寛永一七年の駒ヶ岳の噴火と大津波について、松前年々記 乾之巻は「〓滔商船ノ者共蝦夷人共人數七百餘死」と記し、福山舊記も「津波商船夷舶夷船人數七百餘人溺死」と記している。
ここにいう商船は、和人の昆布採る商(あきな)いの船のことで、夷舶夷船ともにアイヌの船と解されている。
寛永年間(一六二四)に、すでに多くの和人が、亀田辺から内浦湾の沿岸に来て、アイヌと共に昆布を採っていたものとしている。