海運が唯一の輸送手段だった昔から、昆布で拓かれた郷土沿岸の海産物は、延宝の頃から、そして寛政年間の鱈漁業も、松前や箱館の商人によって販売されていた。
漁家は生産した海産干物、塩物、魚粕を定期の船便で函館の委託屋に送った。値(相場)任せ、売り任せという産物の委託販売法が永い間の仕来(しきた)りだった。
そして漁家は年中の米穀、漁具資材、衣類にいたるまで、必要なものは手紙で委託屋に注文して船で送ってもらう。漁家を相手にする商人は多く米穀商も兼業していた。
海産物の精算は、多く旧正月前に大晦日(おおみそか)の勘定といって精算する。倉敷料、所定の口銭の外に送ってもらった生活品の代価を差引いて、年に一度の勘定をする。
明治以前から戦後まで長い間、漁村の経済を支配していた。
函館の海産商(委託屋)と漁家との特殊な経済関係を、漁村では信用取引といっていた。信頼関係の中でみとめられるこの関係は、資本主義経済のなかでも、もっとも前近代的な仕組みと人間関係で、漁村と漁家の経済を支えてきた。そしてこの海産物の委託販売の仕組みは、漁村の発展や人間関係を束縛していた。
地元には函館の海産商とつながる仲買人がいる。商人でもあり、自ら昆布を採り、加工もやる。箱館の店との取り継ぎもするが、自らの商売もする。漁家と地元仲買人、または漁家と直接函館の海産商とつながる特定の関係ができていく。これを海産商の飯食(めしくい)と呼んだ。
〓徳田屋が天保年間、川汲の七戸の漁家に特製させた元揃昆布は、明治一五年には小前三五名となっている。この生産と販売のなかにも、飯食という深い関係をみることができる。
二代目徳田和兵衛が、明治二〇年に函館水産商取締に差出した川汲三五戸の「海産物収獲純益決算調(明治一五年から同一九年まで)」がある。
明治から大正にかけて北洋の海産物も増大し、函館の海産商は三〇〇軒といわれるほど繁栄していく。(後述)