鰊漁

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 ニシンは春告魚といって、夏のコンブ、秋のサケ(秋味)とともに、蝦夷地の三品として古くから代表的産物であった。昔から多くの人たちが、危険をおかしても津軽海峡をこえて蝦夷地へ渡海してきたのも、自由な社会へのあこがれもさることながら、ニシン、コンブ、サケ漁などの一獲千金の大きな魅力が人々をひきつけてきたのである。
 そのため、蝦夷地ではニシンは「魚に非ず」というので鯡と書き、米そのものを意味するものだった。松前藩では魚の交易による収入を、知行(禄高)と同様にみなして商場・漁場を給地とした。蝦夷地は漁業の海産交易を根底にした独特の経済制度のうえになりたっていたといえる。
 和人による蝦夷地の漁業開発は、ニシン、コンブ、サケなどの海産物を求めて、北へ北へとすすめられていった。
 郷土への和人の渡来ははやく、松前、箱館の漁民たちが昆布採り舟として入稼ぎしたことにはじまり、次第にアイヌと雑居がみとめられ、少数の家数が定住した時代が長かった。
 松前蝦夷記
 
  鯡 背の方を取り跡をほし端鯡と名付。
    背の方を干申候を みがきと名付、別々に商(あきない)申候
  収納鯡は 背を取不申、丸干鯡にて納申候
    鯡並鯡子、白子とも 江指村 松前町にて諸国より船来積登るよし。
    とりわけ鯡並白子は、中国、近江路へ積登せ田畑の肥にいたし申候由
 
とある。