明治一八年三月九日茅部山越郡長桜庭為四郎が長万部村内蕨岱等巡回の項に、真宗大谷派西念寺に投宿した日の記録に「此日西地漁場へ出稼人通行多ク、一日六七百人宛投宿アルヲ以テ旅人宿何レモ(略)」とある。
明治二〇年代からは樺太、千島への漁業進出にともなって出稼ぎ地も北へと進んでいった。日露戦争で一時中断はするものの明治の末から大正にかけて、日本の漁業資本は、カムチャツカからアラスカへ、そして樺太から沿海州へと飛躍的に進出した。それを支えていったのは、北海道沿岸からの出稼漁民であり、東北・北陸からの出稼農民が主流であった。
臼尻村出稼
人数 出稼先
明治四〇年 六〇人 利尻
四一年 九五人 利尻・岩内
四二年 五九人 樺太・岩内
四三年 九三人 森・岩内
四四年 九三人 樺太・利尻
すべて鰊建網の漁夫としての出稼ぎであった。 (大船校沿革誌郷土資料)
渡島から多くの海外出稼ぎがあった明治四〇年代の旅券(函館市・亀谷 昂所蔵)がある。
旅券(表)
旅券(裏)