漁民の出稼ぎで薪炭払底か

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 明治一四年三月三一日の函館新聞(三九五号)は、「今年の漁業雇夫の給金は非常の高価なる処より、茅部郡尾白内尻岸内臼尻等の海岸通りの漁民ハ挙って雇夫(やとひふ)に出掛る由。殊に該地方の鱈漁ハ今年は至って不漁なりしもの可ら、少し役に立つものハ我も人も皆出稼ぎするので、跡に留守居するハ婦女子と老人(としより)のみなりと。又此近在各村よりも同じく雇夫に出掛けるゆゑ、薪(たきぎ)や炭を当港へ売出るものが不足になり、為める薪などハ少し払底となりしやに聞く。」と報じている。鱈漁が不振であった年は、男達が多く鰊漁場へ出稼ぎするので、山から伐り出す薪が少なくなったほどであるという。
 明治一八年三月九日茅部山越郡長桜庭為四郎が長万部村内蕨岱等巡回の項に、真宗大谷派西念寺に投宿した日の記録に「此日西地漁場へ出稼人通行多ク、一日六七百人宛投宿アルヲ以テ旅人宿何レモ(略)」とある。
 明治二〇年代からは樺太千島への漁業進出にともなって出稼ぎ地も北へと進んでいった。日露戦争で一時中断はするものの明治の末から大正にかけて、日本の漁業資本は、カムチャツカからアラスカへ、そして樺太から沿海州へと飛躍的に進出した。それを支えていったのは、北海道沿岸からの出稼漁民であり、東北・北陸からの出稼農民が主流であった。
 
   臼尻村出稼
       人数   出稼先
明治四〇年  六〇人  利尻
  四一年  九五人  利尻・岩内
  四二年  五九人  樺太・岩内
  四三年  九三人  森・岩内
  四四年  九三人  樺太・利尻
すべて鰊建網の漁夫としての出稼ぎであった。              (大船校沿革誌郷土資料)
 渡島から多くの海外出稼ぎがあった明治四〇年代の旅券(函館市・亀谷 昂所蔵)がある。

旅券(表)


旅券(裏)