享保元年(一七一六)「蝦夷地に雑穀を植えしむ」の記録がある。元和六年(一六二〇)宣教師カルワーリュの旅行記に、「蝦夷には莢果と稗以外には米や野菜の田畑がない」と記録している。アイヌ神話にあるように享保以前、相当ふるくから稗や粟などは耕作されていたようである。
寛政三年(一七九一)菅江真澄は、松前より搔き送(かきおく)り船で海岸を有珠まで旅したとき、「サハラ(砂原)を出て里の中路を行けば 麻生(アサフ) 豆圃(マメフ) 胡瓜畠(キウリハタ) さゝげの畑 けしの花苑もありて 家は軒をつらねて海士のとみうど多し」と記している。
砂原辺はもちろん、この沿岸の漁家は来住の昔から、野菜類はすべて自力で耕作して自給自足をした。水稲のない蝦夷地で松前藩も蝦夷奉行も、住民たちに田畑づくりを大いに奨励した。農耕の奨励は食糧の増産のためだったが、住民は課税の対象となるのを嫌って、農村以外では「隠し畑」として開墾し、耕作したという。
とくに永い冬の間の越年米の備えは、すべての物質の輸送を海路に頼る人たちにとって、備え米を節約するために、粟を蒔き、稗やソバを耕作した。また、米に代わるものとして作付に精を出したものに芋がある。