万畳敷高原は、明治の中期までは原始林が繁茂していたが、明治三七年に熊泊硫黄鉱山の採掘がはじまると、坑木や洗煉のための燃料として隣接の万畳敷の雑木林が払下げられ、鉱山が隆盛期に入ると燃料、坑木材の需要も多く大量に伐採されていった。
入植
道庁は、模範林東渡島事業区の万畳敷高原を農耕地とする計画をすすめ、大正四年、四〇四町歩を六〇戸区画に設定して入植者を募った。
この頃、上川郡愛別村字アンタロマの入植地にいた開拓の人びとに、この地区に在任して函館湯の川森林事務所に転任した監守某から、万畳敷再入植をすすめる便りがあった。北海道の奥深いアンタロマの開墾は苦労が多く、そのうえ冷害に見舞われていた時だったので、転地についてその適性を確かめるため岡崎国次、田代幸七、瀬戸定右衛門が現地視察に赴いた。現在では人影のない山間部で道も杜絶えがちの不毛の高原に化してしまっているが、大正四、五年当時の磯谷川の上流は、熊泊鉱山の全盛期であった。万畳敷の真下まで馬車道路があり、百二、三十戸、三百四、五十人の鉱山関係者が住んで、山間に一つの鉱山市街があった。ここから急坂な山道を登ると一望に広けた熊笹の高原がつづき、坑木伐採の杣夫の山小屋もあった。山小屋の近くには手造りの畑に大根など野菜が育っているのを見た岡崎、田代、瀬戸は、農耕地としての適性を確信して上川アンタロマに帰った。
こうして大正五、六年には、愛別村アンタロマから万畳敷農耕地への入植が実現した。一区画は一〇〇間に一五〇間、約五町歩の区画であった。
奥地で原始林と闘った開墾者にとって、熊笹の高原開拓は容易であったという。てごろな小区画を外周りの熊笹を掘り起こして焼き払っていく。焼畑農耕のように一年、二年は適当な沃土として耕作物もよくみのった。主な作物はテボ、ビルマ(豆)、蕎麦、イナキビ、菜種、エンドウで除虫菊なども蒔付けた。
大正八年には入植戸数四五戸、最高のとき五二戸に達した。日常の雑貨は鉱山の購買部で求められる。農家の男たちは、鉱山の日雇に頼まれて働くと日銭(ひがね)の収入もできる。
特別教授場
大正五年以来、万畳敷に入植した農家の子ども達は鉱山の特別教授場に通学した。朝万畳敷から一九曲りの急坂を下り、帰路はこの坂道を毎日登って家に帰った。
大正九年には万畳敷の戸数もふえ、臼尻村の一部落として認められ「板木、臼尻、熊泊」と同じく部長を送ることになり、岡崎国次が選出された。
この年九月には万畳敷に熊泊尋常小学校特別教授場が開校した。分教場は万畳敷の人たちの心のよりどころとなり、夜は青年たちも集まった。
函館道路
大正一〇年、万畳敷から赤川に通じる道路が開削された。幅九尺で延長一六キロメートルの函館道路工事に、万畳敷農耕地の人たちも人夫に雇われ、一二月七日に完成した。函館道路とよばれ、函館の市場に農作物を出荷するのに便利になるので、大きな期待をもった。
函館道路落成 大正10年 旭川市・渡辺幸太所蔵
入植時のたくわえもなくなり、鉱山の日雇いや山仕事に頼まれて海岸におり、臼尻や尾札部の薪伐(まきき)りなどに出かけた。
"万畳敷の木挽きさん"として重宝がられ、尾札部の薪炭組合の薪伐りは、毎年、瀬戸定右衛門に頼んだという。
順調であった畑も、高原の畑地は沃土としての黒土層はうすく、黒土の下は厚い火山灰・軽石の層であった。三年、四年と経つにしたがい、作柄が思わしくなく、馬鈴薯はピンポン玉位の小粒なものしかできなくなった。高原は霜が早く、九月の中旬になると霜がおりた。そのため麦もイナキビも生長が悪く、よくみのらなかった。
大正一〇年には早くも離農者が一軒、二軒とつづくようになった。
農耕開拓の主力となる男手が、日々の生活費を稼ぐために外に出て働き、大事な農耕の仕事は主婦や子どもにまかされていたから、開拓は停滞してしまった。
農耕地代表は再三再四、村役場や森林事務所に出向き、近くの低地に農耕に適した土地をみつけてくれるように、陳情をくりかえした。