〔七重勧業所の沿革〕

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 官業・民営による明治期の産業開発に指導的役割を果たしたのが官立の七重勧業所であった。その沿革を略記する。
 
明治 2年   榎本武楊仮政府晋魯西(プロシア)人ガルトネルと七重の土地を貸し付け契約をかわす。
明治 3年   開拓使は函館地方でさかんに養蚕を奨励し、民間の収繭を買い上げる。
     7月 亀田郡に養蚕世話係を置く。
    10月 桑樹栽培、養蚕勧誘のため委員を各村に巡回させ、また、郡村に資金を支給。
    11月 ガルトネルから取り戻した七重の土地と付属施設をその母体として、はじめ開拓使函館出張
       所に属し、「七重開墾場」と称して委員数名をおき開墾、種芸を試みる。
明治 4年 3月 札幌郡丘珠村に養蚕室、亀田郡大野村に養蚕所を設けそれぞれ岩鼻県(群馬県)より教師二名
       と三名を雇入れる。
明治 4年   札幌官園を北六条の西方三、六〇〇坪を開墾試験場御手作場、ついで一号園といい、また、
       偕楽園試験場ともいう。
明治 4年12月 場内へ農家一八戸六二名を移住させる。これらは永住農といわれ、毎戸新墾地六反歩および
       農具、家具が支給される。
明治 5年 4月 東京官園において牧畜・樹芸および西洋農具の使用法などを伝習させるため農業現術生徒の制
       度を立て、若干名の生徒を募集し手当を与え実技を教授。
明治 5年11月 開墾場雇農夫一一戸四九名が移される(支給は前例にならう)。
       男は一月に米二斗一升、金一両三分、女は米一斗二升、金一両一分を与えて耨耕・製麻などに
       従事。
明治 6年 2月 七重開墾場を一時東京官園に所属、本園の管轄とした。道内それぞれ「七重官園・札幌官園・
       根室管園」とよぶ。
     5月 ふたたび本場が置かれ、アメリカ種の牛馬羊豚などの家畜を移し、農業現術生徒を七重に
       送った。のち、草木や家畜などを続々と移した。
       事務所・牛馬羊舎・搾乳所などを建築して、牧畜・樹芸の業務が本格的に始まった。六月には
       ケプロンも視察して種々の勧告を行っている。
       明治六年末、植物園七〇町歩(一八四・六)牧場一・九町歩(二八四・六)樹林一九・三町歩(八
       一・三)建家属地〇・六町歩(七・七)。
       三開地八五〇・九町歩(三〇五・九)道路、溝渠四三・六秣場一五五・六貸地一三六・五、合計
       九四二町歩六(その他計一、二五五・二)。
明治 6年   冬、事業不振のため大野養蚕所を中止する。
明治 7年 3月 根室郡萌様(もやさん)および穂香(ほにおい)村に試芸園を新設する。のちの根室官園である。
明治 8年 4月 七重(開墾場)を「七重農業試験場」と改称する。
       六月札幌本庁では地方農業勧誘のため札幌官園に西洋農具の使用・耕耘の諸術を教えるため各
       郡より丁壮約三〇名募集(月金六円支給し一〇ヵ月間習業させ、帰郷後、村民に伝授する場合
       六ヵ月間の給料前給与)。
明治 8年 6月 酒田県士族二〇四人を招請し、一四三人を札幌に六一人を大野村において夫々桑園開墾にあた
       らせた。
明治 9年 1月 七重「勧業課試験場」と改称される。
     9月 札幌官園は札幌農学校へ移管され、三〇万四、五〇〇坪の土地を得て農黌園を設立した。
明治10年 6月 あらためて大野村養蚕場を設置、養蚕室、蒸繭所など新築、七重勧業課試験場に属した。
明治11年 5月 札幌農学校の植物園が新設された。
明治11年 7月 「七重勧業試験場」と改称。
明治12年 4月 七重勧業試験場の七重を「七飯」としたが、同五月、旧称「七重」に復した。
       アメリカ産のものに加え渡島国産をはじめ府県産の穀物・蔬菜・果樹・諸木・草類を植栽、こ
       れら樹林・製造・牧畜など。
       植物園・牧場・樹林・製紙所・水車室・家畜房・製煉所・附属大野養蚕場・桔梗野牧羊場そ
       の他。
明治14年 5月 東京官園の第一・第二試験場を廃止し、地所及び植物をあわせて売り下げる。
明治15年 2月 開拓使の廃止により農商務省の管轄に移る。第三試験場を御苑に加え宮内省に交付して東京
       官園はその役割を終えた。
                                      (資料 七飯町史)