寛保年間(一七四一~四四)、「土人始テ見出シ候由」と川汲温泉鶴泉の由来は、文化一二年、仙台の人千葉尚が記録した掲額が薬師堂にある、と明治五年菊地重賢「神社取調巡回日記」に記録されている。寛保年間、この地の温泉が知られていた証である。
天明四年(一七八四)の北藩記略のヲサツベのところに「温泉在(あ)り。万病に有効。天明二寅載」とある。川汲温泉か、大舟温泉か、磯谷温泉かは不明であるが川汲温泉のことであったと思われる。
寛政年間末(一八〇〇)ごろの松前随商録にも、ヲサツベとして「温泉あり、万病に吉」としている。
寛政二年(一七九〇)、最上徳内(宝暦五年生・一七五五)は、「蝦夷草紙」上巻 巻之二 産物の事の項に、
温泉
知内 湯の川 乙部 見布 平田内 湯の台 大沢
カツクミ(河汲) 床部(鹿部) 留めの湯 ヱサン(恵山)の山の湯 シベツ セヽキ(勢々気)
とカツクミ(河汲)と鹿部・留ノ湯・ヱサン(恵山)の温泉のことを記している。