〔神社創始の起源〕

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 郷土の神社の勧請は尾札部稲荷神社が最も古く延宝七年、飯田屋与五左衛門が南部三戸郡福岡(岩手県二戸市)の呑香稲荷へ参詣してこれを授けられて、尾札部村に祀ったといわれている。
 ついで臼尻厳島神社は、享保の頃、知行主新井田金右衛門が当海岸勤番見分の砌り、海上暴風にあい臼尻の澗に避難したとき、形よき石を建てて海上の安全を感謝し祈願したのがはじまりで、のち、宝暦三年(一七五三)村民協議のうえ安芸の宮島にいたり、市杵神社の神影を勧請(かんじょう)して弁天島に祀ったという。以来、人びとは弁天さまと呼び、この島を弁天島と呼んだ。
 つづいて明和五年(一七六八)、木直村の佐藤屋彦太郎が南部下北郡(青森県)易国澗村に至り、神社に参詣してこれを勧請し木直に祀ったという。祖神は現在の風間浦村大君神社といわれている。
 川汲村には安永二年(一七七三)、能登国の人加我屋金左衛門が生国七尾村より稲荷社を勧請して祀ったという。
 寛政五年(一七九三)、小板屋久兵衛が讃岐国に至り、金毘羅宮より勧請して一社を建て、のち、川汲稲荷神社に合祀した。
 大船稲荷神社は安永二年(一七七三)、高田屋彦右衛門が江差の笹山稲荷神社の分霊を勧請して庭内神として祀った。川汲の勧請と同年である。のち、寛政四年(一七九二)に至り旧村熊村の村民協議のうえ、現在の社地に小祠を建てて祀ったという。
 弘化・嘉永の頃、別当田中甚太郎が晩秋の山野に在り、夢の中で珠玉を与えられたという、大漁の珠玉(たま)伝説がある。(伝説の項に詳述)
 安浦稲荷神社の勧請も同じく安永年間で、板木(安浦)の三木屋茂左衛門が庭内神として祀り、のち、天保二年(一八三一)村民協議のうえ氏神として祀り、社殿を建立したという。
 古部稲荷神社は寛政八年(一七九六)、工藤八太郎が出羽国(山形県)大久保稲荷に参詣して勧請し、古部に祀ったと伝えられている。
 磯谷稲荷神社の起源は詳かでないが、文政五年(一八二二)の亀田八幡宮社記によれば、松前藩私領の頃すでに臼尻領磯谷鎮守稲荷大明神と記されている。すくなくとも寛政年間以前にすでに祀られていたことになる。