須弥壇

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郷土に始めて創建された臼尻龍宮庵、現覚王寺の前身、曹洞宗箱館高龍寺末に、天保七丙申年(一八三六)、臼尻村幸吉ほか板木・川汲尾札部・木直・古部の信徒ほか有志五四名により須弥壇が寄進された。
 全体が黒漆塗りのもので、各段の筋目は朱塗で仕上げられていた。
 上段までの高さ一二八センチメートル、最上段の幅二四四センチメートル、上段飾り欄干の高さ三八センチメートル、中段胴飾中 最大幅一〇九センチメートル、最小幅一〇九センチメートル、高さ三三センチメートルであった。
 長い年月の間には、本堂の改築も度たびあったが、そのつど、天保の黒塗りの須弥壇は覚王寺の本堂の正面を飾り、悠々一五〇年に及ぶ先人の遺徳を今に伝えてきた。
 施主人臼尻村幸吉、庄三郎らに始まる板木村三太郎、木直村団治、尾札部村与五左衛門、川汲村忠右衛門、古部村藤兵衛の村々の筆頭者は、それぞれの村の開拓先駆者の名として周知の人びとの名である。当時の龍宮庵の住職は卍牛(まんぎゅう)という僧であり、箱館の商人と思われる山口屋太次兵衛、この須弥壇新調のために仏具師らと交渉してくれたという世話人か。また、松前の船頭梶谷與八は、須弥壇を山形地方辺から船で運んで来てくれた信仰の厚い船頭としてその名を残したのであろう。
 龍宮庵須弥壇は覚王寺由緒の宝物的仏具であるばかりでなく、黒地に朱塗で書かれた寄進者の名は、それぞれ郷土の歴史を飾る先駆者ばかりであった。まさに郷土の歴史を証明する貴重な史料、第一級の郷土の文化財であった。
    施主人
    臼尻村      尾札部
     幸吉       與五左衛門
     庄三郎      又吉
     久右衛門     喜太郎
     紋八       文蔵
     藤兵衛      初五郎
     初彌       松五郎
     次
郎兵衛     角兵衛
     太五右衛門    利七
     藤右衛門     徳蔵
     勘十郎      金兵衛
     圓八
     卯之助
             川汲
    板木村       忠右衛門
     三太郎      勇左衛門
     善兵衛      久兵衛
     喜兵衛      重兵衛
     米蔵       寅吉
     藤枩       丑之助
     甚吉       寅蔵
     勇吉       彦三郎
     與七       林治
    木直志村      久治郎
     團次       源兵衛
     彦太郎      金右衛門
     松兵衛      久次郎
     仁六       源五郎
     佐五兵衛     儀八
     由五郎      金之亟
     藤太      古部村
    筥館        藤兵衛
       〓
     于時天保七丙申年
       正月吉祥日
         臼尻村龍宮祥庵
              卍牛代
     世話人 松前一船頭
            梶谷 與八
         筥館
            山口屋太次兵衛
    施主(五四名)
     臼尻村  一二名
     板木村   八名
     川汲村  一六名
     尾札部村 一〇名
     木直村   七名
     古部村   一名
 
    (昭和五七・九・四 荒木恵吾調査)
     写真  上巻口絵 掲載

臼尻村龍宮庵須弥(しゅみ)壇

黒漆塗 総高 一六六cm(五尺五寸)
    間口 二四四cm(八尺五分)
    奥行  九一cm(三尺)