明治三七年二月一〇日、日露戦争が勃発すると、郷土からも多くの若者が出征した。旭川の第七師団が大陸に派遣されて参戦すると、郷土出身者のはじめての戦死の公報が役場に、そして家族のもとに知らされた。
明治三七年 木直出身 陸軍上等兵 一一月戦死
岡本八十八
明治三八年 川汲出身 板本兵次郎 六月戦病死
同 尾札部出身 飯田末太郎 八月戦病死
同 熊泊(大船)出身 佐藤仁吉 一一月戦死
明治三九年 川汲出身 酒井利作 三月戦病死
郷土出身の兵士五名が日露戦争で戦死した。戦死の公報が入ると、村中は悲憤のうちに勇士を讃えて、村民挙げて盛大な村葬を執行し参詣した。
尾札部の飯田勝雄家に、当時の故飯田末太郎に捧げた一二の弔辞が保存されている。
弔辞奏呈者
一 尾札部村戸長代理筆生 加納武久
二 尾札部報公会副会長 内藤二太郎
四 尾札部村消防組 組頭 吉川與三郎
五 尾札部村惣代人 内藤二太郎
三 尾札部村巡査駐在所詰巡査 高橋寅次郎
七 木直尋常小学校訓導 増田善次郎
八 尾札部村 藤本種八
九 川汲村代表者 竹中重蔵
六 磨光尋常小学校校長 犬上清三郎
一〇 古部部落代表 高坂信次郎
一一 磨光尋常小学校児童総代 杉林幸太郎
一二 木直尋常小学校生徒総代 佐藤豊太郎
陸軍補充兵看護卒 故飯田末太郎 略歴
明治一六年三月 尾札部九〇番地に生まれる
二六年六月八日 磨光小学校簡易科卒業 六七号
二七年五月一九日 同尋常小学科卒業 二六号
試験成績第三等賞
三七年八月一〇日 第七師団第二七聯隊 応召
第七師団第三野戦病院付旅順・遼陽・奉天ノ大戦ニ参加
三八年六月一一日 清国盛京省奉天兵站病院 入隊
八月五日 同病院ニ於テ戦病死
一〇月二二日 葬儀
どの弔辞も、戦没した勇士の壮途を讃え、志中半に倒れた若者の死を悼み、切々と心情こもる弔意が捧げられている。
「勇気奮然トシテ応召シ」
「護国ノ鬼ト化シ」
「陛下ニ忠ヲ尽シ、同胞ニ義ヲ尽セリ」
「誠ニ忠烈ト謂ハザルベカラズ」
「名誉ハ身(み)死シテ功名ヲ青史ニ留メ」
「芳魂以テ千歳ニ滅セズ」
など、強い語調、美辞麗句のなかに、当時の日本人の悲壮なまでの愛国観・戦争観があらわれているのがうかがわれる。