年 代 江戸時代 宝暦十二年(1762)
形 状 花崗岩 高さ二〇〇cm ヨコ四七cm タテ四八cm
形 式 単制無縫塔
種 子 ア・胎蔵界大日如来
銘 文 国分中興宥雄法印 奉造立 本府安養寺宥恵(ほか)
概 要 安芸国分寺は鎌倉末期までは相当の寺領を領し寺運を維持していたが、室町時代に戦乱が永く続き、寺領も地方武士の横領にまかせられ、衰微の極に達した。毛利元就が寺領を寄進して安芸国分寺の寺運も向上した。
ところが関ヶ原役の後、福島正則が入府し領内の寺社領を没収し、福島氏に次ぐ浅野氏も僅かな燈明料を寄進しているに過ぎず、由緒深き国分寺は衰微し宝永年間(1704~11)に衰微が最もはなはだしかった。
本墓塔の第三十五世宥雄(ゆうお)は衰微していた安芸国分寺を復興した。その記念として宝暦七年(1757)には賀茂郡白市村の木原保満が宝篋印塔を建てたのである。
時に権大僧都宥雄八十歳、木原保満七十歳。
(木原保満寄進石造物集成 国分寺宝篋印塔 参照のこと)
[安芸国分寺無縫塔]