東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ
④西条酒の歴史を考えてみよう!
西条で酒づくりがさかんになったのはいつごろでしょうか。
下の年表をみて、西条の酒づくりに関係する時代に印をつけましょう。
(クリックすると色がつきます *Chrome推奨)
時代 出来事
室町時代 〇奈良(なら)で「南都諸白造り(なんともろはくづくり)」と呼ばれる技術が生まれる
安土桃山
(あづちももやま)時代
〇伊丹(いたみ)で「伊丹諸白造り(いたみもろはくづくり)」と呼ばれる技術が生まれる
江戸時代 〇伊丹で「寒造り(かんづくり)」という技術が生まれ、「伊丹丹醸造り(たんじょうづくり)」とよばれる
〇灘に酒ぐらがふえる
〇灘で、酒がくさらないようにするために菰樽(こもだる)が使われるようになる
〇中国酒(中部地方のお酒)が、たるに錦絵(にしきえ)のラベルをはって売られるようになる
〇灘で「宮水(みやみず)」とよばれた日本酒づくりにてきした水が発見される
〇宮水を使ってつくられた灘の酒が江戸(いまの東京)で売り上げをのばし、「灘流生もと造り(なだりゅうきもとづくり)」とよばれるようになる
明治時代 ○各地の酒ぐらが「灘流生もと造り」を学んだが、灘(なだ)以外ではつくることができなかった
○1894年 山陽鉄道が開通し、西條驛(さいじょうえき)(今のJR西条駅)ができる
○1898年 三浦仙三郎が『改醸法実践録(かいじょうほうじっせんろく)』という本を出版する、のちに「軟水醸造法(なんすいじょうぞうほう)」とよばれる技術が発表される
○1904年 東京に大蔵省醸造試験場(おおくらしょうじょうぞうしけんじょう)が完成する
○1907年 日本醸造協会が「全国清酒品評会(ぜんこくせいしゅひんぴょうかい)」を始める
○1911年 日本醸造協会が「全国新酒鑑評会(ぜんこくしんしゅかんぴょうかい)」を始める
大正時代 ○「西条酒造株式会社(しゅぞうかぶしきがいしゃ)」ができる
○1917年 西条の木村静彦(きむらしずびこ)と石井峯吉(いしいみねきち)が京都の大倉恒吉(おおくらつねきち)とともに初の全国酒類品評会の名誉賞(めいよしょう)くら元となる
昭和時代 ○1930年 佐竹利一(さたけりいち)利彦(としひこ)親子によって、「竪型精米機(たてがたせいまいき)」が開発される
○河東碧梧桐(かわとうへきごとう)が「酒都西條(しゅとさいじょう)」という言葉を初めてつかう
西条の酒づくりに関係する出来事が集中しているのは、どの時代でしょうか?
西条で酒づくりがさかんになったのは、明治時代よりも後だということがわかるね。
のんたの画像
どうして西条では明治時代より後に酒づくりがさかんになったのでしょうか?
上の年表と『わたしたちの東広島』95-96ページを参考にして、考えましょう。
西条の水は「軟水(なんすい)」といって、日本酒をつくることにてきした水ではなかったんだ。
だけど明治時代になって、海外の知しきから学び、安芸津(あきつ)出身の三浦仙三郎(みうらせんざぶろう)らが新しい技術を生み出したんだ。
それが「軟水醸造法(なんすいじょうぞうほう)」といって、今では全国各地で広く使われている酒づくりの技術だよ。

明治時代になって西条に鉄道が開通したことも、酒づくりがさかんになった理由だよ。
明治時代よりも前には、船で酒を運んでいたんだ。しかし、西条は海からはなれていて川の便利もよくなかったから、船で運ぶには不利だったんだ。
西条駅ができてからは、鉄道で酒を遠くまで運べるようになって、酒づくりがさかんになったんだね。
のんたの画像
灘や伏見では、古くから酒づくりがさかんでした。
これらの地いきとくらべて、西条の特色を図に表してみましょう。
酒都西条の発展 【資料】西条の酒づくりの特色
伏見の水は「中硬水(ちゅうこうすい)」、灘の水は「硬水(こうすい)」というお酒づくりにてきした水でした。 また伏見では、すぐ近くに京都や大阪などの大きな町があり、近くに流れる大きな川から船で出荷していました。 また灘は、海のすぐ近くにある町なので、船で出荷していました。
しかし、西条は、上の図のようになりますね。
のんたの画像 市役所の男性
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