東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ
③いつから黒瀬町なのだろう?
これは何でしょうか?
画像 【資料】乃美尾とかかれた門の石柱
「乃美尾(のみのお)」と書かれているね。これはもともと「乃美尾村」の役場の門にあった柱なんだ。
のんたの画像 画像 【資料】合併記念とかかれたの二宮金次郎像
画像 【資料】銅像(どうぞう)の後ろ
画像 【資料】銅像(どうぞう)の後ろの文章
この銅像に書かれているように、黒瀬町は4つの村が1954(昭和29)年に合併してできた町なんだ。黒瀬の生い立ちをさぐってみよう!
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いつから黒瀬町になったのでしょうか?歴史をたどってみましょう。
江戸時代の様子のわかる地図をみてみましょう。
画像 【資料】江戸時代の地図
(出典:『黒瀬町史 環境・生活編』p.15より引用)
約200年前の地図だよ。青くかこまれたところが「黒瀬組18ヶ村(くろせぐみじゅうはちかそん)」とよばれていた地いきで、当時は18の村に細かく分かれていたんだ。この地名は、今の住所の大字(おおあざ)に残っているね。
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その後はどうなったのでしょうか? 明治の地図に今の黒瀬町を重ねました。
画像 【資料】明治の地図における今の黒瀬町のはんい
約100年前、この地いきには板城村(いたき)・上黒瀬村(かみぐろせ)・下黒瀬村(しもぐろせ)・中黒瀬村(なかぐろせ)・乃美尾村・郷原村(ごうはら)などがあったんだね。
1954(昭和29)年に、これらの中で上黒瀬村・下黒瀬村・中黒瀬村・乃美尾村の4つの村がくっついて黒瀬町になったよ。その次の年には、板城村の一部が加わったんだ。
のんたの画像 画像 【資料】江戸時代の地図と現在の黒瀬町のはんい
(出典:『黒瀬町史 環境・生活編』p.15より引用、加筆)
郷原村は、江戸時代には黒瀬組18ヶ村のひとつだったのに、1954(昭和29)年の合併では黒瀬町に入らなかったんだね。どうしてだろう?
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なぜ郷原は黒瀬町に入らなかったのでしょうか。
『黒瀬町史 環境・生活編』という本によると、1954年の合併のころ、郷原村に住む人々は呉とのつながりが強かったそうだよ。買い物や仕事で通う人も多かったんだ。住民投票をしたら、呉市と合併することを望んだんだって。
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黒瀬町は、1954(昭和29)年に上黒瀬村、中黒瀬村、下黒瀬村、乃美尾村、板城村の一部が集まってできた町だよ。今の大字の地名は江戸時代の地図にもかくにんできるね。
のんたの画像
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