陸奥国と出羽国

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天武・持統朝の準備段階を経て、大宝(だいほう)元年(七〇一)に施行された大宝律令(りつりょう)は、日本で初めての極めて整った成文法で、これによって日本は中央集権的律令国家の段階に入った。それまでも近江令(おうみりょう)・飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が制定されており、決して律令法的なものがなかったわけではないが、当時の貴族の実感としても、大宝律令こそが、日本の律令の一つの到達点であったことは、越後城司(えちごじょうし)として慶雲(けいうん)四年(七〇七)に没した威奈大村(いなのおおむら)の骨蔵器の銘文中に「大宝元年を以て、律令初めて定まる」と記されていることから知られる。
 阿倍比羅夫以後の、東北地方への律令国家の進出の具体相については、史料が少なく、確かなことはあまりわからない。
 太平洋側については、大化改新後の孝徳朝には陸奥国が成立していたといわれている。その範囲は、現在の福島県(ただし石城・菊多を除く)と宮城県の南半分であった。仙台市の郡山(こおりやま)遺跡が、当時の陸奥国府所在地であったらしい。やがて神亀(じんき)元年(七二四)に多賀城(宮城県多賀城市・写真39)が創建されると、陸奥国府はそこに移転する。

写真39 多賀城復元模型 多賀城は「遠の朝廷」と呼ばれた。

 持統天皇三年(六八九)正月、務大肆(むだいし)(のちの従七位下に相当)陸奥国優耆曇郡城養(うきたむのこおりきこう)蝦夷脂利古(しりこ)の男(むすこ)の麻呂と鉄折(かなおり)が、髪を剃って沙門となることを願い出て、許されている。この優耆曇郡とはのちの置賜(おいたみ)郡で、そこまで律令制の行政区画が及んで来ていることがわかる。
 一方、日本海側では、天武天皇十一年(六八二)四月、越後の蝦夷の伊高岐那(いこきな)らが俘人七〇戸をもって一郡を建てることを願い出て許されている。この新設の郡が現在のどこであるのか、残念ながらわからないが、庄内地方の南部のいずれかと目されている。持統朝には、越(こし)国が、越前・越中・越後に三分割され、陸奥国とともにこの越後国が律令国家の北の最前線を構成するようになった。
 そしてその越後国内で、律令国家体制が整備されていくのと軌を一にして、和銅元年(七〇八)九月、出羽郡が建郡された。出羽は「いでは」と訓(よ)み、「出端」の意味で、越後国の北端に突出しているところからつけられた命名である。このころの郡域は、ほぼ最上川以南の庄内地方であった。
 また翌年には出羽柵も設置され、そこに各地から武器が送られてきた(史料四五)。さらにこの出羽柵内の征狄(せいてき)所に、越前・越中・越後・佐渡の四国の船舶一〇〇艘が集められ(史料四六)、庄内遠征が開始された。征越後蝦夷将軍は佐伯石湯(さえきのいわゆ)、副将軍は紀諸人(きのもろひと)である(史料四四。同時に陸奥側でも陸奥鎮東(ちんとう)将軍に巨勢麻呂(こせのまろ)が任命されている)。この遠征は簡単に終了したらしく、半年たらずで将軍たちは都に帰っている(史料四七)。そして蝦夷たちも、和銅三年(七一〇)正月元日に、大和の藤原京の大極殿(だいごくでん)で行われた朝賀の儀に際して、皇城門(朱雀(すざく)門)外の朱雀路に、将軍らに率いられて参列している(史料四九)。蝦夷が大極殿朝賀の儀に参列したのは、これが史上初めてのことである。
 そして和銅五年九月、出羽郡を出羽国に昇格させ(史料五一)のちにそこに陸奥国から割かれた最上・置賜二郡が編入されている。ほぼ現在の山形県域を覆う出羽国がこうして誕生した。