時に国政の実権を握っていた摂政右大臣藤原基経(もとつね)は、五月、名吏の誉れ高い右中弁(うちゅうべん)藤原保則を出羽権守に登用して、乱の平定を彼に託すことにした。保則は、以前に備中・備後の国司として善政をしき、人々から「父母」と慕われ、任が解けたときには両備の民が悲しんで道をふさいだというほどの人物である。また中央でも右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)・検非違使(けびいし)として、その公正さは都中にとどろいていた(『藤原保則伝』)。苛政に起因する反乱に対処させる人物としてはまさに適任である。
保則は、「蝦夷反乱の原因は秋田城司の苛政にある。いまは蝦夷が一致団結して決起しており、この状態では坂上田村麻呂でも平定は難しい。したがって、義をもって徳化し、朝廷の威信を示せば、野心は和らぎ、武力なくして収束できる」と、的確な情勢判断を示し、徳化と示威という方針をもってその地に臨んだのである。