稀有な北の富

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そうした全国的な再編成のなかでは北の蝦夷の世界も例外ではなく、たとえば陸奥国から中央政府への主要な貢納物として、馬・絹・金などが一〇世紀初頭から前半にかけての時期に、新たに、あるいはそれまでの制度を再編して、交易によって調達されるように設定されていった。
 この時期になると、かつて比羅夫の時代以来盛んに行われていた蝦夷の朝貢と、それに対する饗給(きょうきゅう)というようなやりとりは影を潜め、蝦夷世界からも物品を交易によって入手し、中央に貢納するようになっていたのである。
 北の世界に対しては、他の地域では決して入手できない北方の特産物が交易品として指定されている。一〇世紀初めにまとめられた、律令法の施行細則集である『延喜式』によると、陸奥国よりの交易雑物として葦鹿(あしか)皮・独犴(どっかん)皮・砂金・昆布・索(より)昆布・細(ほそき)昆布が、出羽国よりの交易雑物として熊皮・葦鹿皮・独犴皮が指定されている(史料三五九)。ただし先に述べたように、延喜式制は早くも一〇世紀初めには一部改変されている。
 これらのうち熊皮は日本では北海道にしか生息しないヒグマの皮であると推測され、阿倍比羅夫の時代にも「羆皮」として珍重されていたものである。
 また独犴皮も北方の犬の毛皮(おそらくオホーツク文化の産品。ラッコの皮とする説もある)であると思われる。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、独犴とは「胡地の野犬の名」であるとされている。オホーツク文化のなかで、犬が生業のなかに定着していたことは考古学的に証明されている。この独犴皮こそ、オホーツク文化と日本との交渉を示す貴重な文献史料なのである。
 さらに葦鹿皮についても、いわゆるアシカの皮ではなく、北方のオットセイかアザラシ(水豹)の皮を指すとする説がある。アシカの皮は薄くて毛皮としての利用価値はないからだというのがその理由である。たしかにオホーツク海沿岸のゴマフアザラシの毛皮は古来珍重されている。ただ、能登沖の舳倉(へくら)島で行われていた、今は絶滅した日本海特有のアシカの漁の事例を考えると、ここもニホンアシカと理解してよいものと思われる。
 砂金はいわずと知れた東北の象徴的な産品の一つ。昆布も、函館近郊の宇賀(うが)の産品が著名であり、のちのちまで北の世界を代表する産品であった。
 またこの時代以後の他の記録には「糠部の駿馬」の起源でもある狄馬(てきば)や、鹿角地方の特産品である毛布狭布(けふのせばぬの)、あるいは貂裘(てんきゅう)・粛慎羽(北方産の鷲の羽か。写真60)・胡籙(ころく)などがみえ、中央から、北の世界独特の物品が強く求められるようになっていた様を知ることができる。

写真60 鷲の羽

 毛布狭布とは、麻・苧(からむし)の狭布に山鳥・野兎の毛を混ぜて織ったもので、仏教思想によって毛皮を着られない京都貴族の冬の必需品ともいわれているものである。これを産する鹿角は、それゆえに「けふの郡」とも呼ばれた。三十六歌仙の一人能因(のういん)法師の和歌(『後拾遺和歌集』・写真61)にもこの布が登場するほど都では著名なものであった。

写真61『後拾遺和歌集』