奥州合戦の勃発

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しかし義経問題は、もともと奥州討伐のための口実にすぎない。秀衡の死を辛抱強く待っていた頼朝が、遠征を中止するはずがなかった。頼朝は、勅許なくして平泉を攻めることについて、故実に明るい「武家古老」の大庭景能(おおばかげよし)をして、以下のようにいわせたという(『吾妻鏡』)。
軍中将軍の令を聞くも、天子の詔(みことのり)を聞かず、と云々。すでに奏聞を経らるるの上は、しいてその左右(とこう)を待たせしめ給うべからず。したがって泰衡は、累代の御家人の遺跡(ゆいせき)を受け継ぐものなり。綸旨(りんじ)を下されずといえども、治罸を加え給うに何のことかあらんや。

 これを受けて頼朝は、ついに七月十九日、鎌倉を出陣した。東国に軍事政権を確立しようとしている頼朝にとっては、その最大の邪魔者の平泉藤原氏を除くのは、幕府成立の成否にかかわる重大問題である。なぜなら奥羽二国に、院や平氏政権の支援によって成り立っていた自立的な平泉政権は、幕府という新しい政治形態とは並び立たないものであったからである。
 このとき平泉に向けられた軍勢は、東海道・北陸道・中路の三手から総勢二十八万余の大軍である。全国の軍勢を動員した史上空前の大作戦であった。東海道大将軍千葉常胤(ちばつねたね)・八田知家(はったともいえ)の軍は福島の浜通りを、北陸道大将軍比企能員(ひきよしかず)・宇佐美実政(うさみさねまさ)の軍は山形方面を、畠山重忠(はたけやましげただ)を先鋒とする頼朝の大手軍は中通りをそれぞれ北上して平泉を目指して進軍した。
 これに先立って早くも二月には南九州の果てにまで動員命令が下されている。日置兼秀をはじめとした薩摩国島津荘の荘官らに宛(あ)てられた頼朝の下文(島津家文書)が現存しているが、そこには七月十日以前に関東に参集するようにと記されている。南九州からはるばる奥州まで数カ月の道程はさぞかし大変であったろうが、しかしこれにしたがわなければ一所懸命の地としての所領が没収されることになる。事実、九州の豊前国の地頭その他、西国で命にしたがわず所領没収の憂き目にあった武士は、決して少なくはない。頼朝にとっては今回の動員は、まさに自分に対する忠誠度を測る格好の機会でもあった。この動員によって、鎌倉殿の権威を全国に浸透させようともしていたのである。そのことは、自らの「奥州討伐」を、これから折に触れて述べるように、前九年合戦源頼義の故実に倣って実施しているふしがあることからも確かめられる。今回の「奥州討伐」には高度に政治的な計算が秘められていたというわけである。