その子孫が、のちに津軽地方にも広く分布することとなった。弘前藩家臣中にも葛西家がいくつかあるが、津軽の葛西氏についての確実な最古の史料は、永正二・三年(一五〇五・一五〇六)の年紀をもつ深浦町の円覚寺の棟札で、そこに「葛西木庭袋(きばくら)伊予守頼清」の名が刻まれている(史料八七九・八八〇・写真101)。
写真101 円覚寺棟札
木庭袋とは下総の葛西御厨のなかの地名である。現在の東京都葛飾区あたりで、古隅田川が大きく蛇行する左岸にかつてあった地名で、川が蛇行する場所は、その形から「袋」と呼ばれることが多い。またここは木場でもあったので、木庭袋という地名が生じたといわれている。木庭袋氏は『前代歴譜』『新羅之記録』『津軽一統志』などにも散見し、津軽には広く根を下ろしていたらしい。その津軽入り当初の拠点は大光寺城あたりといわれているが、時期も含めて史料的には確認できない。