「空船(舩)」=「うつぼ舟」のモチーフは津軽地方の所伝ではみられないので、秋田で付加されたものらしいが、土崎湊といい、外浜といい、藤崎湊といい、能代湊といい、いずれも唐糸伝説を伝える寺院が津軽安藤氏・秋田安東氏の拠点とかかわっていることが注目される。釈迦内も、安東氏の有力拠点である米代川河口を遡(さかのぼ)った檜山の上流に位置する。津軽にも「清藤家由緒書断簡」(尾上町)などのように、唐糸の漂着先を十三湊とするものがある。
こうしたことからすると、おそらくは得宗領を中心に渡り歩いた、幕府と密接にかかわる禅僧集団、あるいは後述の安藤氏と密接にかかわる時衆集団、ないしは修験の集団、またはさまざまな芸能集団が、まず津軽に唐糸の名を伝え、それが次第に伝播(でんぱ)していったものと考えられよう。唐糸伝説と得宗領の分布とは密接なかかわりをもつものなのである。
ただこれらの所伝は、直接には近世を遡るものではなく、縁起としてそれなりの目的があって書かれたという要素も多々あるであろうから、細部にまでわたって、その内容に沿っての論述は残念ながらできない。