この地頭職は正和二年(一三一三)、「ありわう」の子、光頼嫡子資光へ譲渡された(斎藤文書、遠野南部家文書)。しかし元亨二年(一三二二)、資光は安藤の乱鎮圧に出陣するに際して、「おやよりさきたちまいらせ候あいた、(中略)恐れなから」と、父光頼に譲渡され(斎藤文書、遠野南部家文書)、さらに正中三年(一三二六)、資光の遺児「いぬなりまろ」に譲渡された(斎藤文書、遠野南部家文書)。この間、三町・在家という地頭職の内容は変っていない。
なお先に触れた伊豆国安富郷国吉名の地頭職の場合と同じく、当地の地頭職についてもすべて、他の所領(地頭代職)とは別に単独での譲状が作成されていることは、その所領の重みを感じさせる。
この正楽名以外の所領は、やはり地頭職である信濃国水内(みのち)郡小井(居)郷を除き、駿河国「かまたのかうししきはんふん(鎌田郷司職半分)」、陸奥国名取郡平岡郷、平賀郡「なかのまち井のうちぬまたてのむら」(平賀町町居付近)、筑前国綱分荘「こほうしまろ」名・「かな丸」別分職などすべて、正応五年の惟秀の譲状によって、一期分として「たうしやう」に譲渡された(史料五九四)。一期の後は「むすめとものなかに御たちにほうこうをいたすおとこをもして、心さしならんものにあひはからひゆつるへし」とされたことで著名である。
しかしここで譲渡された所領のうち、駿河国有度郡鎌田郷の郷司職半分は「そうりやうちきやうのものにつくへきなり」とされ、そのせいか、以後曽我氏関係の史料にはあらわれない。同じく名取郡平岡郷が、以後見えなくなるのもそれと関係あろうか。のちの元応元年(一三一九)の「あま(尼)たうしやう」の譲状では、この二つを譲与の対象から除くことを言明している(史料六一一、新渡戸文書)。
平賀郡「なかのまち井」郷沼楯(ぬまたて)村の地頭代職(「みうちそりやう」。史料六〇七)および筑前国綱分(つなわき)荘「かな丸」の地頭代職については、「たうしやう」が「ありわう」に対して、嘉元三年(一三〇五)から正和二年(一三一三)にかけて繰り返し譲状を書いている(史料六〇〇~六〇二・六〇七・写真122)。
写真122 尼たうしやう譲状
この間、「たうしやう」が、ずっとこの地に対して影響力を保っていたわけであるが、それは「かなまろへちふんしき」を押領したとされる「なかつかさ太ろう(中務太郎)たゝかす」(史料六〇二)のように、実家の片穂氏一族のなかに、「たうしやう」一期分の取り返しを謀るものがいたからである。最終的にこの二か所は、元応元年(一三一九)十二月二十八日の「たうしやう」の譲状によって資光に譲渡された(史料六一一)。
この譲状によると、すでに「ありわう」知行時代から、資光には二か所の年貢などの一部が給与されていたようで、また綱分荘のうち「こほうしまろ」名の方は、以前に資光に譲渡されていたらしい。今年より綱分荘の両名を一円に知行するよう申し渡されている。もっともすでに年末であったので、「今年より」という言い方が気になったのか、「たうしやう」は二日後の十二月三十日、綱分荘両名の一円知行については「みやうねん(明年)」よりと書き改めた譲状を作成している(新渡戸文書)。
こうした資光への所領の統合は、あるいはこのころにその母「ありわう」が死去したことが関係しているのではないかと推測される。この少し後の元亨二年(一三二二)の資光の譲状で、「たうしやう」のことを「はゝかたのうは」と呼んでいることも(史料六一四ほか)、「ありわう」の死去と関係するのではなかろうか。「ありわう」は正和二年(一三一三)九月を最後に史料にその名を残していない(斎藤文書、遠野南部家文書)。
以後、沼楯村については、資光は件の安藤の乱鎮圧への出陣に際して、やはり父光頼への譲状をしたためているが(史料六一四)、のちに正中三年(一三二六)、光頼から光高へ譲渡された(史料六二三)。しかし光高(貞光)の後醍醐方への忠節にもかかわらず、建武元年(一三三四)、沼楯村は「安保弥五郎入道」へ安堵されてしまった(史料六四〇)。貞光は当然抗議しているが、それが顕家によって安堵されたのは、翌建武二年のことである(史料六六四)。重代の相伝を主張したにもかかわらず、それが勲功の賞として安堵されたことは、貞光にとって不満であったことであろう。
信濃国水内郡小井郷の地頭職については、やはり単独の「たうしやう」譲状で、正和二年に資光に譲渡されている(斎藤文書)。資光は安藤の乱鎮圧への出陣に際して、当地についても父光頼に宛てて単独の譲状をしたためている(斎藤文書、遠野南部家文書)。もっとも綱分荘両名と混乱したのか、同年同月同日付の前記の沼楯村に関する譲状にも、右の別な単独の譲状に明記したはずの小井郷の譲渡が見えている(史料六一四)。結局これが踏襲されて、のちに光頼が光高に譲渡するときも、沼楯村と小井郷とがセットになってしまっている(史料六二三)。あるいは綱分荘両名の地頭代職はすでに押領されてしまっていたのだろうか。