なお北については、右の史料にみえるものとしてはすべて佐渡で一致している。これは古代の『延喜式』以来の一貫した境界認識である。ただ境界という観点から離れて、方位意識という点からだけをみると、古代において北陸道の行き着く先である出羽を、北陸道の延長として北と考える意識がなお残っていることに注意される。
この点から見て興味深いのが、津軽安藤氏関係の史料群である。たとえば『秋田家系図』(史料一一五三)冒頭の、著名な安藤氏の始祖説話のなかで、安日王が流されたのは津軽・外浜・安東浦を包括する「北海浜」であった。こうした津軽ないし出羽方面を北と意識するものは、やはり安藤氏関係の貴重な史料群である、千葉湊家の文書・典籍類などにも見えている。
出羽ないしその延長としての津軽方面を北と意識することは、かなり根強いものがあったらしく、たとえば『尊卑分脉』の藤原基頼の項に「討二出羽・常陸并北国凶賊一」と見えている(史料五〇二)。現在も使用される「東奥」「北奥」という用語とも関わって興味深い。