写真126 秋田家系図
堯恒の後は「此間五十余年、某名不レ詳故不レ記」とされ、次に貞秀を置き、「従二貞秀一以来、以二安東太郎一、為二当家仮名一」とし、その子堯秀(安東五郎)について「為二平義時代官一、守-二護東夷一、住二津軽一」と注し、その後さらに「此間七十余年、某名不レ詳故不レ記」、次の愛秀(旧記云、自二此時一初住二十三湊一)を経て、堯勢を正和~元弘年中(一三一二~一三三四)の人として掲げている。さらにその孫の鹿季が秋田湊を伐って秋田湊家の元祖となったと記す。
なお『秋田家系図』のなかに、南北朝初期の秋田安藤次郎まで触れた『安藤系図』の影響がみられないのは、『安藤系図』が阿倍氏系図に付会された、成立の新しいものであるか、秋田氏嫡流とは無縁のところで成立したものであったためであろうが、前述したようにその詳細は明らかではない。