仲麻呂と広庭は、実は親子ではなく(この点については、『安藤系図』の方が正確である)、広庭が東北に来たという史実もない。しかし平安時代の末から鎌倉時代初期に成立したとされている『江談抄』という説話集(藤原実兼が大江匡房の談話を筆録したもの)には、遣唐使吉備真備(きびのまきび)が唐人にその才能を妬まれて幽閉されたとき、かつてそこで唐人に殺されて「鬼」となった仲麻呂が現れ、真備を助け出すという説話が載せられている。このように中世には阿倍仲麻呂を鬼とする伝説が流布していたのである。著名な『吉備大臣入唐絵巻』もこの話をもとに作成されたものである。その子とされる広庭にも当然、「鬼」のイメージがまとわりついているが、その広庭が、前述のように父の仇討ちのために奥州に下ったというのである。
当時の人々にとって、「鬼」は境界世界に住む恐怖の対象であり、奥州の終着地の外浜は、まさに東の境界世界であった。「鬼」となった人々が集まるにふさわしい世界である。
さらにまたこの系譜には、「盛季 安藤太津軽十三湊安大納言」の項に、「長髄百代之後胤也」と記されていることも重要である。
この盛季の時代は、ちょうど皇室も当時一〇〇代目と意識されていた後円融天皇の在位期間に当たる。そして当時また、天皇家が一〇〇代で滅亡するという、「野馬台詩」の「百王説」が流布していた。時の足利将軍義満は、皇位をうかがっていたともいわれている。つまりこの安藤氏の系譜には、皇統断絶を示唆する記述すらあるのである。
「鬼」といい「百王説」といい、この系譜には、反中央的な要素が満ちあふれている。四系統の安藤氏系図のなかでは、この『下国伊駒安陪姓之家譜』が、朝敵のイメージの強い人物をそのままストレートに系譜のなかに取り入れる傾向が強くみられるが、この系図はまさに朝敵のオンパレードといった感がある。
こうしたもっとも異端的な系譜こそ、あるいは安藤氏系図の最も古い形を伝えるものかもしれない。安藤氏にはやはり反中央的なイメージが似合うのである。